海に宿る月 (5)







 昼間なら十分とかからない道のりを暗い夜道のせいで時間がかかる。緩いカーブの先が見えない不安。だけど……
――行かなきゃ、急がなきゃ……
 沖に見えたあの影は確かにあの方向に流れて行った。佐和子の特等席。いつも夏が来ればそこで日中を過ごし海を眺め続けた場所。この夏はあの少年と出合った。
 ぽつ、ぽつ、と柔らかい雨がじんわりパジャマの肩を濡らす。雨に混じってふうわりと固く青い実が香る。
 緩やかなカーブの向こう。ここを曲がればあの海が見える。八年前、溺れた場所は家の前の海だった。けれど無事発見されたのはいつも少年と会っていた堤防の下に並んだテトラポットの上。ヨシ婆にその時の話しを聞けば、仰向けに穏やかな顔色で寝息をたてていたという。
 潮の流れに不自然に逆らってどうやってあの場所まで辿りついたのか、不思議なこともあるもんだと不思議がる大人も居たが「それにしても助かって本当によかった」締めくくられそれ以降話題に上ることもなかった。
「きっと海の神さんが佐和ちゃんがあんまりこんまいけん不憫に思うて助けてくれたんよ」
 ヨシ婆が小さな頭を撫でながら、誰も自分の話をまともにとりあってくれないことで悔しいやら切ないやらで悶々としていた佐和子の気持ちを慰めた。
 当時を思い出しながらカーブを曲がる直前で自転車を漕ぐ足が止まってしまった。

 ちゃぽん

 確かに、聞こえる。海に落ちる雨の音ではない。

 ちゃぽん

 耳を澄ます。船が揺れて波を立てる音でもない。
 軽やかに水を切る音が次はずるりずるりと重たそうに何かを引き摺る音に変わった。
 ゆっくりと何かが海から這い上がってくる気配に鼓動が駆け足を始める。体中の血液がふつふつと湧き上がるようで、頭の芯まで熱くなってしまう。
 見たい。このカーブの向こうを。
 しかし…そこにあるのは自分が期待している何かでは無いかもしれない。
「そうよ、もしかしたらただの酔っ払った誰かが落ちただけかもしれないじゃない」
 考えてみて、ハッと我にかえる。
「だったら!余計グズグズしてる場合じゃないじゃない、助けなきゃ!」
 山肌にしがみつきながらおそるおそる顔を出す。
 暗い海。
 けれど夜道を走ったおかげで暗さに目が慣れている。テトラポットの上に動く何かがぼんやりと見える。
「やっぱり、誰か海に……」
 助けなきゃ、そう思って飛び出そうとした時だった。
 はっきりと目に映ってしまった。
 しがみついていた山肌に体が張り付いてしまって動けない。先ほどまで興奮で震えていた体がぴたりと止まりまるで自分がその風景の一部として吸い込まれてしまったような感触。
 テトラポットの上をそれは重く這うように動いていく。
 全身を覆う茶色く細い触手達がわさわさと蠢きその先がピッピッと伸び縮みしながら水滴を払う。最後にぶるぶると大きく震え完全に水気を切ってしまうと、まるで暗い空を仰ぐように大きく伸び上がりぶわっと全身を膨らませまるで深呼吸をするかのようにしぼんでゆき、ゆっくりと、下の方から形を変え初めていった。
 細い棒のようなものが二本、周辺の触手が撒きつくように形を作ってゆく。形造られる端から茶色い体は冷たく透き通るような白へと変化していく。
 二本は途中から一本になり上の方へ行くと左右に一本ずつ細い枝に別れて、また一本に戻る。
 今ではすっかり解る。海から這い上がってきた毛玉のようなそれは確実に人の形を造っていた。細い首の上に小さな頭が完成し蠢いていた無数の触手はもう見る影も無かった。
 降っていた雨が止み雲に隠れていた月が佐和子に「さぁ見てごらん」と言わんばかりに顔をのぞかせはじめた。
 シャワーのように降りてきた柔らかい灯りの中、照らされたその後姿を見て佐和子は心臓が凍りついた。
「まさか……」
 固まっていた体が動揺で震える。
 カラリ……指先に触れていた山肌が動揺に反応するように一群れの小石をアスファルトに転がした。その音に月灯りの中浮かぶように背中を向けていた人影がゆっくりと慌てる風も無く佐和子の方を振り返る。
 目と目が合った、ような気もしたが振り返られた瞬間に佐和子はまるで悪いことをしている子供が大人に見つかってしまったような気持ちに襲われ山肌から離れ再び自転車に飛び乗った。
 来た時よりは若干明るくなった道を飛ばすように走る。
「あれは……あれは…」
 汗がどっと噴き出す。
「あれは……」

 テトラポットの上で彼は佐和子の消えて行った方角をしばらくじっと眺めていたが視線を足元に落としうな垂れて小さく呟いた。
「見られた……かな……」
 できあがったばかりの色素の薄い髪に残された最後の一滴がつつ…と流れ落ち華奢な肩に落ち、はじけるように散って消えた。

 ただ座っているだけでもじんわりと汗ばむ盆の後。「暑さ寒さも彼岸まで言うけんど、ほんまにえらいんは盆過ぎてからのこの時期やのぉ」陽よけにタオルをほっかむり腰を屈めて黙々と菜っ葉を間引くヨシ婆を手伝いながら「婆ちゃんそれ毎年言うなぁ」と佐和子は笑う。
「そうかのぉ、そしたら去年も言うたんやろぉか」ハハハと声を上げてヨシ婆も笑い答える。
 くすくすと口の端で笑いながら目が笑っていない。鼻から上無表情に菜っ葉を機械のように抜いては放る佐和子をちらっと横目で確かめヨシ婆はまるで独り言のようにぼんやりと呟いた。
「そういえば今日は行かんでええんかいのぉ」
 佐和子は言われていることは解るが聞こえなかったようなふりで手を動かし続ける。
「どこぞから休みで来とる子やったら、もうじきいんでしまうんやなかろうかねぇ寂しいこっちゃ」
「なんで……」何故ヨシ婆がそんなことを……最後まで言おうとしたがヨシ婆がそれを遮るように続ける。
「今朝なぁ用事でちょっとあっちん方行ったらぽつーんと一人でおったなぁ」

――ひとりで――

 あの夜からちょうど一週間を数えていた。溺れて助かった翌年の夏から、登校日の日でも学校から帰ると昼ご飯もそこそこに駆けて行った。一日と空けず通ったあの場所に一週間も行っていない。
「よっぽど大きい台風ん時以外毎日行っとったろ。何ぞ喧嘩でもしたんか?そやったら、早う仲直りせんと。休みが終わって街にもんてしもうたら話もでけんようになるんと違うか?」
――喧嘩やったら、ええんやけどね……
 確かに、喧嘩ならどちらかが先に謝れ済むこと。しかし、見てしまったあの夜。
 海が這い上がってきたのは懐かしい懐かしいあの生き物。ずっと追い求め探し続けたりりちゃんによく似ていた、溺れた佐和子を助けてくれた生き物。いつか必ずもう一度会えると信じて沖を眺め続けた夏の日々。待ち続けるうちに、確かにあれはりりちゃんではない。けれどもしかしたらりりちゃんが海の生き物として生まれ変わった姿なのかもしれないなどとも想い始め、いつか会えたら……いつか再開できたなら例え言葉は通じなくともあの不思議な茶色い塊に向って「ありがとう」と伝えたい。そう思いながら。
「来年もまた会えるとは限らんでなぁ」
「婆ちゃん!」
「何ね、急に大きな声だして」
「よう知っとる年頃の子が知らん男の子と親しくしとったら普通はあんまりええ顔せんもんやない?」
「そうかのぉそういうもんかの」
 ヨシ婆はまたハハハと笑った。
「そうよ、そういうもんよ」
 てっきり佐和子が照れてしまったものと思ってヨシ婆はそれ以上に言うのをやめた。草むしりで曲がった腰を「うーん」と伸ばしながら立ち上がり
「佐和ちゃん今日はもうええけん、ありがとうなぁ」
 言いながら傍らで実っている茄子を?ぎ取り佐和子に向って放り投げる。
「今年は茄子もにがうりもよぉでけた、いつもいつも手伝ってくれてありがとうなぁ」
「うちこそ、いっつもいろいろ貰ぉて。今日の晩はこれ焼こうかな」
 顔をほこらばせ胸元に飛び込んできた二本の茄子を抱え込むようにキャッチする。
「佐和ちゃんもおせらしゅうなったなぁ」
 しみじみとヨシ婆が呟いたのを聞き逃し「え?」と振り返り聞きかえすが「いいや、何も」にっこりとかわして
「さぁて、そろそろ蜜柑も忙しゅうなるな」やれやれとまた腰を伸ばした。

 暦では夏も終わりに差しかかっているが陽射はまだまだ刺すように痛い。大きな台風の来訪もこれからが本番になる。
 天気予報が次の台風を予想する。
「大潮と重ならんけりゃええが」
 沖縄あたりに強い雨を降らせ始めている台風に向ってヨシ婆が祈った。
「そっか、台風がまた来てるんやね……」
 小さな台風は既に幾つか通り過ぎていた。テレビのキャスターが何十年かぶりの大雨になると被害の拡大する恐れを口にする。
「明後日あたりからここいらも暴風圏内やろ、また浸水せにゃええが」
 溜息をつくヨシ婆の家は去年一昨年と二年続けて床上まで水が来た。畑も塩水が入り込んですっかりだめにされてしまった。だからヨシ婆は急いでいた。大型台風の予報を聞いて、また畑がダメにされてしまう前に生っているものは収穫してしまおうと、間引きなどしながら手頃に育った茄子と玉葱をかごに山のように積んでいた。その中からまた一つ玉葱を取り「クズやけど味噌汁にでもすればええ」ぽんと手渡し
「佐和ちゃんのお母さんがな、家の事ばっかりやらせてしもうて普通に子供らしいことさせてやれなんだ、て言うとったで。年頃の娘らしゅうボーイフレンドの一人もでけたらお母さんもちっとは安心するに」
「普通はそういうの心配するもんやろ……」
 照れながら、複雑だった。

 あの夜の光景が忘れられない。ふとしたはずみに脳裏に蘇る。

 あの夜から、最初の三日ほど佐和子は随分悩んだ。確かにその目で見たあの光景を現実のものと認識できなかった。
 苦しかった。盆に降りてきた見ず知らずの仏様が戯れに見せた雨の夜の夢だとも思った。しかし時間が経つほどにその光景はさらに鮮明に、鮮やかに蘇る。“夢”で片付けるには確かすぎる記憶。
 やがて受け入れてしまった現実。
「そうだね、あの子が人間だったら……」

 恋心は芽生えていた。
 あの夜が全てを白紙に返した。
 そしてようやく辿りついた。
 彼が、りりちゃんだったのかもしれない……
 けれど会いに行く勇気は無かった。
 全てが怖かった。確かめることも。言葉交わすことも。顔を見ることも。



「雨が来るかな」
 一方で少年はいつもの堤防に腰掛けただひたすらに待っていた。
 やはりあの夜彼女は見たのだ。来なくなってしまった待ち人を想いながら細い肩が不安で震える。
――僕は、どんな風に見えたんだろう――
 雲の間から覗いた月はテトラポットの上に居た自分を十分に照らして見せただろう。けれど少年の方からは山の上からせりだした木の影が邪魔をしてカーブの向こうから覗いていた彼女の姿は、ぼんやりと確認できたもののその表情までは見ることができなかった。
――ずっと、ずっと待っていたのに……ようやく時が満ちて会うことができたというのに――
 自分のあの異形の姿を恐れてもう二度と会いには来てくれないかもしれない。
 では、自分から彼女の住む村の近くまで訪ねてみようか?思い切って彼女の家まで訪ねてみようか。白とピンクの小さな花が幾つもの毬を作るように咲いている二本の木が目印の、そうだ、あれは確かサルスベリという名前の木だと言っていた。行くのは容易い。けれど……
 怖かったのは彼女を訪ねた自分を見て彼女がどんな反応をするかということ。化け物と石を投げられるかもしれない。家の中に閉じこもって顔も見せないかもしれない。
 これまで、親しくなって、つい気持ちが緩んで本当の姿を晒してしまった人々の見せた反応が蘇り記憶の中を駆け巡る。
 怖い。会うのが。けれど、会いたい。
 来て欲しい、この場所へいつものように。来て欲しくない、彼女の恐れる表情を確かめてしまいたくない。
 会いに行きたい。けれど……
――こんな風に思ってしまうなんて――
 ぐるぐると佐和子のことばかり考えてしまう。
――こんな風に、あの姿を知られてどう思われるか、怖いと思ってしまうなんて――
 今まで出会って恐れて自分から離れて行ってしまった人々に対して、ショックはあった。傷つきもした。けれど、その後彼らが自分をどう思っただろうか、そんな事を恐れたことは一度も無かった。
「どうすればいいんだろう、僕はこのまま、これから、どうすれば」

 堤防の上で、立てた膝の中に頭を埋めるように抱え込んで、涙が出そうな熱さを胸に感じる。
 遠くの沖で波が揺れる。

 ちゃぽん

 波音の向こうから蘇る古い古い記憶。小さな卵だった自分を暖かく穏やかに包み込んでくれていた産みの親がいつも語りかけてくれていた柔らかい声。
「そうだね、少なくとも僕は……ここで立ち止まっているわけにはいかないんだ。急がなきゃ。僕も残された時間は既に僅か。佐和子が……僕を恐れて否定してしまっても……立ち止まっているわけには……」

 雨はまだ遠く。静かな静かな台風の前の夕暮れ。シーズンが終わり人気の消えた砂利浜に降り立ち湾の林の影めざし駆けて行き人の目の届かない場所に来たのを確認して冷たくなりはじめた海にゆっくりと足を入れて行った。

「佐和子……」
 波打ち際に集まった半透明の海月達が彼の足に道を譲るようにするりと左右に別れ静かに歩む彼を深い沖に誘うように先を開ける。

「どうか……」
 どうか、恐れないで。本当の僕を恐れないで。
 どうか、僕に恐れさせないで。本当の僕に怯えるだろうだろう佐和子の顔を見ても、傷つかない勇気を僕に……

 祈るように、沈んでゆく彼の姿が徐々に膨らみ無数の触手の塊となり波間に広がりちゃぽんと波紋を残し消え、やがて波紋も寄せては消える波にかき消された。



NEXT
Top
Novel Top
2005.9.6