海に宿る月 〜6〜






 台風が来ていた。風が波を大きく揺らし暗い空の彼方からこれから激しく降るだろう雨を予感させる。
 佐和子の母親も仕事を早々に終えて帰ってきていた。
「今夜半から降り出すかねぇ。風もそうとう強ぅなってきとるし、明日の朝には過ぎるやろうけんどまた庭の掃除が大変やねぇ」
「大変や言うてもどうせ掃除するんは私なんやけん、お母さんが困ることなかろう」
 まぁそうやけど……と苦笑いしながら今日早く帰ってしまったせいで中途半端に残ってしまった仕事を気にする母親を気遣う。
「明日朝早う出勤せないけんやろ、今日はもう休んだがええんと違う?」
 慣れた手つきでちゃっちゃっと食卓を片付け洗い物に向う娘の後姿を頼もしく、けれど申し訳なく思う複雑な気持ちで「そうやねぇ」と立ち上がる。
「あんたも早ぅ寝なさいよ。こんな日は遅くまで起きとってもええことないけん」
 確かに、風にアンテナが煽られテレビの映りも悪い。こんな日に限って図書館から借りていた本が家の中で行方をくらます。加えてこの数日どこが悪いというわけではないのだが妙に体が重いような熱っぽいようなダルさが抜けない。「うん、私もさっさと寝るわ」と濡れた手を拭きエプロンをほどいた。

 ちゃぽん……

 激しく雨戸を叩く雨に紛れて小さく鳴くように何かが響いた。

 ちゃぽん……

 布団の中でまどろんでいた佐和子だったが耳に覚えのある音に目が覚めた。
「まさか……」
 締め切った雨戸の向こうからそれは一定の間隔を置いて三度、四度と繰り返し聞こえてくる。佐和子は静かに音を立てないように窓を開け雨戸も開け細い隙間から庭を覗き見る。
 風で蹴散らされすっかり淋しくなってしまった百日紅の細い枝を指先で弄ぶ白い背中が月も灯りも無い真っ暗なはずの夜の中でぼんやりと淡く光って見えた。
 佐和子が窓を開けたのに気付いたのか、視線を感じたのか彼はゆっくりと振り向きちょっと困ったように眉間に皺を寄せながら微笑んだ。
「やぁ、佐和子」
 考える余裕も無かった。何故彼が今そこに居るのか、何をしに来たのか、この雨の中……佐和子は窓を超え裸足のまま雨の庭に駆け出した。
「大丈夫なの?こんな台風の日に外になんか出て!こんなに濡れて風邪でもひいたら……」
 シャツの袖を掴み彼を雨の当たらない軒下に引っ張って行こうとする佐和子を「しっ」と彼女の口先に人差し指を当てて制した。ちらっと佐和子の部屋の隣の窓を盗み見「そんなに騒いでたら家の人が起きちゃうよ?」今度は眉間に皺など立てることなくにっこりと笑ってみせた。
「だって、こんなに濡れて……」
「濡れても、僕は大丈夫だから」
 濁りの無い笑顔の向こうに佐和子はあの夜の光景を思い出す。しっとりと濡れた何百本という細い触手達がざわざわと蠢きながらやがて一つの塊を作って行くのを見た、あの夜。
 思わず掴んでいた袖を手放し後ず去ってしまった。彼もその腕を背中に隠すように回し首を傾け「うん、やっぱり見られちゃってたんだね」淋しい声で呟いた。
「佐和子は、僕が怖い?」

 怖いかと聞かれれば怖くないとは言い切れない。しかしそれを口にしてしまった後の彼の表情を見るのもまた怖い。返事に戸惑っている佐和子の気持ちを汲んでいるようにゆっくりと彼が話し続ける。
「僕はずっと佐和子を見てたよ。あの小さな佐和子が海に沈んで僕の腕の中に落ちてきたあの日から」
 激しい雨にすっかり濡れてぺたんこになってしまった佐和子の髪が大きく震えてしぶきを散らした。
 あの夜あの海辺で見た不思議なふんわりと大きな生き物。彼の姿へと月灯りの下変化していったあの生き物。どこかで見た覚えがあった。けれどずっとソレと一致させて考えることができなかった。似ている、と一瞬思いもしたが、あまりにも非現実すぎる。ありえない。確かにずっと探し求め続けてはいたが本当に存在すると思うことをいつか諦めてしまっていた。だから、一瞬胸をよぎった思いはその場限りで忘却されてしまっていた。
 その、一瞬脳裏をよぎった『ありえない』考えが再び蘇った。
「りりちゃん……?」
「うん」
 呼びかけられて嬉しそうに、今まで見たどんな笑顔よりずっと、本当に嬉しそうに彼が笑った。
「正確にはりりちゃんではないのだけどね」

 海から溢れてきた海水が二人の足元に水溜りを作り始める。
「海が……大潮と台風が重なってる?でもまさか急にこんな……」
 慌てる佐和子の肩に手を置き
「大丈夫、これは台風のせいじゃないから」
「え?」
 急激な海水の上昇。彼の不可思議な言動。理解できずに戸惑う佐和子を彼は柔らかく抱きしめて言った。
「佐和子、僕の、最後の希望。この日を僕はずっと待ってた……」
 大きな波が堤防を越えて二人を頭上から飲み込んだ。
 波は二人をゆっくりとさらい遠い海へ誘う。素足の裏を小さな泡がぽつぽつとくすぐりながら落ちて行く、ほのかに明るい海の底。
「明るい?」
「うん、大丈夫だから。怖くはないから、今は少しだけ僕に付き合って……」
「息が……」
「僕が居れば大丈夫、怖がらないで、そして見て欲しい……」
「見る?」
「うん、僕の世界を」

 海の中は静かだった。海面を荒削る風も無ければ叩きつけるうるさい雨も無い。ただひたすらに穏やかで静かな暖かい世界。
「初めて会ったのも、海だったね」
 初めて会ったのも、海。確かに。けれどあの日の水底はこんなに暖かくは無かった……ぼんやりと佐和子があの幼かった日の事を思い出そうとする。

 冷たく冷たく沈んで行ったあの日。けれどふとした瞬間に暖かく包まれた感触。その後すぐに水を吐いて苦しかった。苦しさの中見上げた先に、りりちゃんと呼んだあの生き物が居た……あの日の緩やかな暖かさと同じ温もりを今感じる。
「アナタは……何?」
「全部教えてあげる。全部見せてあげるから、僕の全部を」
 二人を中心に気泡の塊が取り囲みはじめ小さな竜巻のようにぐるぐると廻り始める。

「僕は……僕達は……遠い遠い昔、同じ海と大地の狭間に生きていた、同じ祖先の末裔……」

 気泡の壁が開き、本かテレビの作り物でしか見たことの無い暑い古代の空気が広がった。
 石造りの神殿と石畳の道。原色の衣をふわりとまとい素足で歩く人々。海に泳ぐ人々。彼らはとても自由に海と陸とを行き来した。
 やがて訪れる地震と津波。大地の異変は人々を陸と海に分けた。
 陸へ逃げた大多数は津波を恐れ海から遠ざかるようにそれぞれ散り散りに散って別れ、長い時を経てそれぞれが違う土地で安住の地を手にいれる頃には海へ戻る術を失っていた。肉体が陸で生きるように変化していた。
 海へ逃げた少数は大地の避けるのを恐れ海底深くに潜り静かに静かに繁殖を繰り返し細々とながらも血を絶やさないよう子孫を残して行った。そして彼らもまた陸に別れた人々と同じように体が海で生きるように変化し、陸へ戻る能力を失った。
「海へ逃げた人々の子孫が僕、そして佐和子達は陸へ逃げた人々の子孫」
 陸へ逃げた人々はその数も多かったので順調に子孫を増しそれぞれに繁栄していったが、海に逃げた彼らはその数が少なすぎた。
「何が悪かったのかは解らない。濃くなり過ぎた血だけが原因とは言い切れない……けれどいつからか僕たちの種族の女性は子供を宿す能力を失っていたんだ」
「どうして……」
「原因は解らない。僕たちの種族は自然淘汰の道を歩むのかと思われた……これは僕の父さんから、そして父さんはさらにその父さんから……伝わって来た話なのだけど」

 最初は五人に一人が妊娠できなくなり、そして三人に一人、二人に一人とゆっくりと時間をかけ、やがて全ての女性はその体内で卵を作る機能を失ってしまった。まるで世界から存在する事を拒まれたかのように彼らは子孫を残す手段を失った。寿命と共に個体数はどんどん減り女性は自分達の中で命を宿す事のできなくなったショックで一人また一人と群れから姿を消して行った。
「彼女達がその後どうなったのかは解らない。けれどこの広い海を長いこと漂ってきた中で同族の女性に一度も会ったことがないから……」
 淋しそうな顔になり、けれど話は続く。
「だけど僕達は種の繁殖を止めるわけにはいかない。地上の人間たちとは袂を分ってしまったけれど、僕達も同じ先祖の元続いてきた命なのだから簡単に諦めてしまうわけにはいかないんだ」

 そう、元は同じ生き物だった。彼らは海で生きるのに生きやすい形に姿も代え地上の人々はそこで生きるに適応した姿に変わって行った、が、元は同じ姿形の人間同士だった。 何代前の男性だったのだろう、何故彼がそう発想したのかは謎だが。
――元は同じ種類の人間であったのだから、地上の女性の卵を分けてもらえば我々もまた繁殖が可能になるかもしれない――
 そして地上の女性を求めて彼らは陸に近づいた。

「でも、卵って言っても……」
「心配しないで」
「だって……」
 彼は彼女を再び抱きしめる。優しい温もりを混めながら力強く。
「佐和子、体が温かいね」
「え?う、うん。ここ二日ほど体がダルくて、風邪気味かもしれない……」
「ううん、違う、僕にはわかるんだ。佐和子の中で初めての、一番最初の卵が今産まれてる……」

 この日を待っていた。
 あの海の底で出会った彼女が一番最初の卵を宿す日をずっとずっと待っていた。
 あの冷たい海の中を絶望に打ちひしがれながら、だけど諦めることができずに卵をくれる女性を求めてずっとずっと彷徨っていた。
 けれどそれは口で言うほど簡単なものではなかった。
 その姿を見た人の畏怖と偏見。まず話をするにさえ至らない。
 陸の人間と同じ姿に変化する能力を得てようやく多少の会話は成立するようになったが、いきなり初対面の人間に「卵をください」と言っても通用はしない。自分の種族の話をしてみせても信用はされない。何度頭のいかれた馬の骨と思われ心も体も傷ついただろう。
 もう自分は卵を得ることなくこのまま朽ち果ててゆくのかもしれない……諦め漂う水底に、突然ゆらりと落ちてきた少女が、居た。
「こんなに小さい娘では卵など持ち合わせていないだろうな」
 けれどその腕の中で息を失い始めた命を棄ててしまえるほど、彼はまだ絶望に堕ちてはいなかった。
 深い海の底を長時間漂うのに必要な空気を存分に含んだ触手の内側。体を丸め抱え込んだ少女の周囲に触手をすり合わせるようにして大きな空気の球を作る。自分の肺の中に残る酸素を触手伝いで口の中に入れてゆく。
 激しく海水を吐き苦しそうに少女が目を開ける。
「いけない、この姿を見られてはまた怯えられ……」
 彼がそう懸念して彼女を投げ出そうとした瞬間、小さな手が大きな彼を抱え込むように広がった。
「りり……ちゃん……?」

「佐和子は僕の姿を見ても怯えることなく、それどころか声をかけてくれた。すぐに気絶してしまったけれど穏やかに僕の腕の中で眠る佐和子を見て、僕は決めたんだ……」

――この少女が卵を宿す大人になるまで待とう。そしてその時少女から拒否されてしまったなら僕はもう二度と卵を求めない。僕の命は子孫を残さないまま朽ち果てよう――

「待ってよ!だけど卵って……それって……」
「僕には解るんだ、この体の温かさはキミが卵を体の中で宿している温もり。ゆっくりとキミの卵が体の奥から降りてくる……」
「待ってよ、それって、私に子供をってこと?」
 少年がまた笑う。大丈夫だよ、と佐和子の髪を撫でながら。
「この間海の不思議な話をしただろ?覚えてる?」
「うん……鯨が集団で……とか……タツノオトシゴとか……」
「そう、僕達の種族はタツノオトシゴと同じなんだ」

 タツノオトシゴはメスの卵をオスが受け取りその体の中で孵化させて、やがて子供達はオスの体から産まれてくる。
「僕達も女性の卵を受け取り自分の体の中で育てて産み落とすんだ。だから佐和子、キミは何も傷つかない。苦しまない。約束するよ」

 僕達の種族は一度に産卵できる子供はたったの一人。そして生涯のうちに産卵できるのは二度、三度だけ。けれど僕は随分長い間海を彷徨っていたのと、佐和子が卵を宿すまで待っていたのできっとこれが最後のチャンスになる。最初で最後の僕の子供を、キミの卵で……佐和子……

 痛みは無い。温かなゼリーの中に漂うような、不思議な体験。
 あぁ、これが胎児が眠る羊水の中なのかもしれない……佐和子は自然に目を閉じる。
 抱きしめられる。抱きしめる。
 彼の知らない素肌の肉体。柔らかで暖かい不思議な肉体。
 彼女の知らない彼の肉体。ゆるゆると蠢く触手達が包み込む温かな肉体。



 キミが、僕を、呼んでくれた。
「りりちゃん」と、呼んでくれた。
 その日から僕は、僕に、なった。
 僕は、おそらく、僕達の種族で、名前を呼ばれ、固体として認めてもらえた、初めての海の人間。
 僕は、キミの中で唯一の「りりちゃん」になった。
 あの喜びが、キミに解るだろうか?佐和子……
 僕達は遠い過去に海へ逃げてから、名前も固体の識別もない、ひとくくりの種族としてただ繁殖だけを繰り返してきた。子孫を増やせばやがて繁栄するだろうと信じて。
 けれどキミが僕に向って「りりちゃん」と呼んでくれた時から、僕はやっと、僕の生きている理由が解った。
 愛しいと思う誰かを抱きしめ、愛しいと思う誰かの、子供なんだ、欲しいのは。
 僕はキミの卵を貰い僕の喜びをそのまま子供に教え伝える。
 ただ子孫を増やすことのみに囚われないで、何の為に子孫を残すのか、語っていくから。

 佐和子、僕に、名前をありがとう……
 佐和子、僕に、ココロをありがとう……
 佐和子、キミの卵だからこそ、僕は慈しみ愛するから……
 佐和子、僕を、ただ子孫を増やすことのみに囚われ続けた海の末裔から解放してくれた、僕の唯一の女性……


 台風の通り過ぎた縁側は陽の光を浴び乾いてゆく。
「佐和子、佐和子?」
「……ん……」
「あんた何ていう所で寝とるん、もしかして一晩中ここにおったん?」
「え?そんな訳ないじゃない、ちゃんと布団で寝たわよぉ」
「やったらええけど……早く起きすぎて掃除でもしよったん?」
「う……ん……」
 朦朧とする佐和子を心配し「朝食は私が作るから早よぉ顔洗っておいで」と母親がせかす。
「うん……」体が鈍く重たい。
「何かなぁ……お腹も痛い……」
 体を動かすと縁側に小さな赤いしるしがついた。
「あれ?」
 重い体を引き摺るように慌てながらトイレに駆け込んだ。

 お母さん、私生理始まったみたい。
 えぇ?
 どうしよう……
 学校で教えてもらったでしょう、とりあえず私のナプキンを……



 台風は秋の訪れと共に一段落し、山は蜜柑で染まる。
「ヨシ婆ちゃんー」
 二学期が始まり佐和子も白いYシャツと黒いスカートを翻しながら自転車を漕ぐ。
 いつもの筏でいつもの通りヨシ婆が網を縫っている。
「婆ちゃん、今日なぁスーパーで饅頭安かったから買ぉてきたん、一緒に食べんね」
 ヨシ婆が驚いた顔で佐和子を迎える。
「あんれまぁ、佐和ちゃんようこっちに来れたなぁ」
「何?」
 佐和子にはヨシ婆の驚く理由が解らない。
「佐和ちゃん海、イケンかったやないか……こんな桟橋もよう渡れんくらい」
「えぇ?そやった?」
 佐和子の記憶の中から怖かった海は消えているのか。揺れる筏の上にちょこんと座りスーパーの袋を開け老女に「はい」と饅頭を手渡す。それを受け取りながら老女はふっと呟いた。
「海神様んでも会うたかねぇ」
 小さな小さな呟きだったが波音に消されることなくそれは佐和子の耳に入った。
――海神様かどうかは知らんけど――
 ただ、ひたすらに、海が恋しい。
「何か、大事なもんはあるような気がするわ」
 ふっと沖を見つめながら佐和子が応えた。
 夏を過ぎて妙に大人びた表情を見せる佐和子に「まぁそんなこともあるわなぁ」とヨシ婆は網を縫う手を休めない。



 いつか、また、会えるだろうか……
 手と手を繋いで歩いたあの日に……


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2005.10.24