海に宿る月 (4) 「ええんよ、信じんで。ただ、私が勝手に信じてここでずっと探してるだけやから。ここにおったらいつかまたあのりりちゃんに似た生き物と会うことができるかもしれんて勝手に信じてここに来とるだけやから」 あの幼い日の不思議だった出来事をすっかり喋り終えて、どうせこの少年も信じずに笑い飛ばすだけだろうと思い顔を赤くしながら頭を抱えた。 ろくに知りもしない人間に自分の事を随分と語ってしまった。幼稚園の時死んだウサギのりりちゃんの話まで。何て恥ずかしい事を……話すだけ話したものの、後悔が次から次に胸中を走る。 「うん、そうだね」 ――あぁ、やっぱり!この子も信じやしないわこんなバカみたいなお伽話! 「自然はまだまだ未知数だから、海だって、人間に知られないまま生きている生物がたくさん居たって当たり前だもん」 「……え?」 初めての肯定。驚きながら胸が高鳴る。 「人間が人間の知る限りの生物しか認めないなんて、その方がおかしいよ。海には不思議な事も現実で計りきれない現象も幾つも現実に起こっているのに」 そっと首を横に向け見つめた少年の顔はじっと海を見つめている。 「……信じてくれるの?」 頼りな気な佐和子の言葉に彼が優しく振り返る。 「海にはいっぱい不思議な事があるんだよ」 謎。テレビなどでよく特集されるUFOや心霊現象から始まって…… 例えば集団で海岸に打ち上げられるイルカや鯨だったり、メスの卵子をオスが体内に取り込み孵化させるタツノオトシゴ、稀に浜に打ち上げられるリュウグウノツカイ、月に支配される珊瑚の産卵……現代の科学では解明されない神秘はいくらでも、どこにでもひっそりと存在している。 「他にも、深海にまで手を伸ばせば、そこはもう謎ばっかりだよ。佐和子の言う人間を助ける茶色いふさふさの生き物が居て、この海に流れ着いていたとしてもあり得ない話じゃないだろう」 見詰め合った視線の間を夏の涼しい木陰の風が走り抜ける。 「ほんとにそう思う?」 笑わずに聞いてくれた。それだけでも嬉しかった。けれど彼はそれ以上に自分の話を認めてくれた。言葉で表現しきれない感動で胸がドキドキ高鳴って涙が溢れそうになる。 「思うよ。だって……」 何かを言いかけた。けれどそのまま口は閉じられ、彼の視線が遠い波間に戻る。 ――だって?―― その先を聞きたいと思った。が、先ほどまでイキイキと海の不思議を語ってくれた時の瞳の輝きが急に静かに冷えていった。寂し気に。 佐和子の戸惑う空気を読んだのか「さぁ、もう行こうか」立ち上がり手を差し出した。掴んだその掌は海辺育ちの少女のそれよりもずっと薄くひんやりと儚げで……一度掴んでまた離してしまったなら二度と触れることができなくなるような気がして……少年の歩く一歩後をゆっくりとついてゆく。 落ち葉がカサカサと音を立てる。 どちらともなく黙り込んでしまった。 少年は振り返らない。佐和子も顔を上げられずにただじっと繋いだ掌だけを見つめて歩く。 遊歩道の出口になってようやく、道路を走る車のエンジン音が聞こえ始めた所で少年が掌をほどいた。とても自然にすっと指を開きズボンのポケットに向って腕を動かし 「こういうとこ、知った人に見られるの困るんでしょう?」 ササを採ってきてくれた澤田のじっちゃんにボーイフレンドができたのかとからかわれた事を言っているのか。一瞬、静かに淋しげに見えた瞳に悪戯っぽい笑顔が戻っている。 思い出したように佐和子も「そうよ、困るわよ!」慌てて掌をワンピースの裾でゴシゴシと拭いた。その様子を見ながら少年がまた更に声を上げて笑う。 「でもさ、佐和子、もう一度その生き物に会いたいと思うのならこうやって遠くから眺めてばかりじゃダメなんじゃないかな?」 「どういう意味よ」 「泳いで、沖まで泳いで。もしかしたらその生き物も佐和子を待ってるのかもしれなでしょう?」 「待ってる?」 「うん」 待っている、あの深い海のどこかで。この沖のどこかで。 けれど同時に思い出す、沈むほどに身動きできなくなる、取り巻く水のしめつけるような圧迫感。廻りはどんどん暗くなっていく。飲んでしまった水で鼻の奥から喉の奥まで痺れる激痛。 怖い 怖い 怖い……… 「でも、私やっぱり……」海で泳ぐことはできない、最後まで言い切れずに言葉を飲み込んだ。彼が小さく「ごめん」と呟いて佐和子の髪をそっと撫でた。 その行為に驚いたのか、照れてしまったのか、佐和子は咄嗟に彼の指を払いのけて 「そういうあんたは泳がんの?いつも見てるばかりで……」憎まれ口を叩いてしまう。 「うん、僕は泳げないから。人のいる場所では」 真面目なのかふざけているのか判断のつかない表情と口調でさらりと佐和子の問いをかわす。 「何よそれ……結局泳げないってこと?」 「まぁそんなとこかな」くすくすと笑いながら堤防に向って早足で歩く。影が長くなってきて夕暮れに少しだけ近づいた午後。 ずっと、ずっと探していた。 暗く冷たい深海から、ほの明るい暖かい海面近くを行き来しながら。 気の遠くなるほど彷徨い続けた年月はその目的さえ忘れさせ始めるほどに。 けれど見つけた。 あの奇跡の日。 やっと 見つけた。 やっと 巡りあえた。 そして、あの時からずっと、ずっと、見守ってきた。見つめてきた…… 人影の消えた海岸でゆるりと滑るように沖へ向う茶色い影が呟いた。 ――もうすぐ、きっと、もうすぐ―― 夏の時が駆けてゆく。 盆の迎え火を焚く頃には子供達の姿も海から消える。その季節限りの賑わいは徐々に静けさを取り戻し次の季節への序奏を始める。 ほの青いトンボがすっと二人の間を抜けて行った。 人気の無くなった海を前に二人は変わらずその場所に少しだけ距離を空けて並んで座って沖を見ていた。初めて知り合った頃は間にもう一人くらい人の入るほどの距離だったのが今日はトンボ一匹がようやくするりとすり抜けるほどに近くなっていた。残暑の下で山から吹き抜ける木陰の風が涼しい。 「もう誰も泳ぎに来ないんだね」 「お盆やもん。これからはもう誰も海では泳がんなる」 盆を過ぎた海は遊びの海では無くなる。 三日後の送り火を合図にするかのように海岸端では薄白く大きな海月がまるで来る者を拒むかのようにふわりふわり漂い始める。 「ふぅん、もう誰も来ないんだ」 いつもとうってかわった静けさに気を抜かれたような感じで二人の言葉もどこか上の空、宙を漂うように流れて消える。 海に向って飛んだとんぼが少し先でくるりと旋回し戻ってきて少年の鼻先をかすめながらまた木陰に消える。 「忙しそうに飛ぶなぁ」 クスクスと彼がいつもの調子で軽く笑う。 思い出したように佐和子が聞いた。 「そういえばあんたはいつまでこっちにおるん?」 「いつまでって?」 不意を付いた問いかけに彼は佐和子を見つめ訪ね返すが、佐和子は少しうつむいたまま、足元に並ぶテトラポットの陰にうごめく舟虫の群れを見つめたまま。 「だって、夏休みで田舎に来とるだけなんやろ?都会なんかから遊びに来とる子らは盆が終わったら大抵帰ってしまうけん、あんたもそろそろ帰る時期なんと違うん?」 「帰る……そうだね……」 佐和子を見つめていた瞳が流れるようにふっと沖に向けられた。 ――帰る、うん、帰るよ、もうすぐ―― 最後の言葉を飲み込んで静かになってしまった少年の横顔を盗み見るように、うつむいたまま目だけ動かし覗き込んだ。 ――やっぱ、よう解らん子だわ―― 灯台からずっと手を繋いで歩いてきた。冷ややかな薄い掌。彼の事を何も知らない佐和子だったが、あの僅かな時間、手を繋いでいる間だけ佐和子は彼の謎めいた不確かな部分を全て忘れ去り、とても身近に感じてしまった。 あの自然に触れ合った一時が今はもう無い。 あの一時を思い出しながら佐和子はじっと掌を見つめ思い出していた。 もう一度手を繋いでみたい……それで少年の何かが解るというわけではないのだけれど、あのとても身近に思えた瞬間をもう一度感じてみたい。触れ合って、それで彼の何が解るとうものではないのだけれど。この謎の多すぎる少年の解らない部分を飛び越えて通じ合う何かを感じる気がする…… 掌から意識をずらし、もう一度少年を振り返る。 目と目が合った。 どきりと佐和子の胸が高鳴る。 「手、どうかした?」 真っ直ぐに問いかけてくる彼の唇の動きに、じっと見つめてくる瞳にどぎまぎして言葉が詰まる。 「べ、別に……!」 戸惑いを隠すように慌てて堤防の上に立ち上がりスカートのお尻の部分をぱさぱさと叩きながら細かい砂利を払う。 「私、もう帰らな……」 「そう?また明日もここに来るよね?」 彼がそう聞いたのは、急に誰も来なくなってしまった海を見ていてもしかしたら佐和子も……と、思って不安になってしまったから。 いつもと変わらず日がな一日遊んでいた子供達が突然姿をそこから消した。 佐和子も、このお盆という行事を境にここから姿を消してしまうかもしれない…… ――そうなってしまったら僕は…… 「しばらくは来れんよ……お盆の間は」 不安が的中してしまった。 「もう?来ないの?」 「うん、お盆の間はちょっとね、家をあんまり空けたくないんよ」 盆には死んだ家族が帰ってくる。その為の迎え火、その為のご馳走。その為の花。その為の掃除。盆の間は帰ってきた懐かしい人達のためだけに家中が廻る。 「私も何だかお盆の間はお父さんやじいちゃんばあちゃんたちが居るような気がして、何となしやけどあんまり留守にようできんのよ」 「そう……」 「今時の若い子の考えることやないて、お母さんは笑うけんどね」 照れて笑いながら語る佐和子の言葉を一言一言噛みしめながら彼は聞いていた。 「じゃぁ、そのお盆が終わったらまたここに来る?」 「え?」 少年の黒い瞳の奥が懇願するような含みを込めて揺れて見えた。佐和子にはその表情をどう解釈していいか解らずに「うん、まぁ」曖昧に答えるしかできなかった。そしてそれは盆の間の僅か数日間彼女をちくりと悩ませ続けた。 ――あそこへ行こうか…… 行けば少年がいるかも知れない。自分を待っているとは限らないだろうけれど。一人でぽつんと沖を眺める少年の姿を想像するとやりきれない思いで切なくなる。 しかし久々に連休をとった母親とゆっくり過ごせる貴重な期間。二人で父と祖父母の思い出に浸りながらのんびりと過ごせるのは盆と正月の他に無い。昨日会った少年の様子では本来彼の住む街へ帰る様子は少なくとも夏休みの間は無いのかも……自分で自分に言い聞かせながら、けれど家の前の海を見ればやはり彼のことが気にかかってしまう。 彼が気にかかりながらも過ぎてゆく三日間。静かな雨の中、軒下で焚いた送り火の煙が昇る夕暮れ。 「もうお父さんもじっちゃんばぁちゃんも帰ったかねぇ」 夕食の後佐和子の母親がテレビの画面をぼんやりと眺めながら呟いた。 「そうやねぇ」佐和子の返事はどこか上の空で、それはこの盆の間その調子だった。 ――何か思う所でもあるんやろうか―― 心配事か悩み事でもあるのなら聞いて力の一つにでもなってやりたいと思うが、親の方からあまりあれこれ先走って聞かれるのも五月蝿かろうと思いとどまる。 「ねぇ、佐和子」 「うん?」 二人とも視線はテレビから動かないが番組の内容は頭の中に入ってこない。流れてくるアイドルの歌声と客席の甲高い声が宛てなく宙に漂い消える。 「お父さんが死んでからあんたには苦労かけとると思うんよ。家のことなんかで友達と遊びにもよう行けんで、なのに愚痴も言わんとほんとにようやってくれとると思うんよ」 「……ん……」 頭の片隅で急に何を言い出すのだろうと思いながら『あぁお盆やもんね』と母親も感傷的になっているのだと解釈しながら相槌をうつ。 「ありがたいなぁて思ぅてる……」 「……ん……」 覇気の無い返事に一言くらい母親らしい事をと話しかけた言葉を諦める。 ――まぁいいわ。年頃の女の子だもの、いろいろ考えることもあるわよね―― そういえば自分もその年頃には母親に内緒で交換日記の一つもした男の子がいたりしたものだ……そう思えば娘の思春期らしい“ぼんやり”も懐かしく可愛く思えなくもない。 「あのね、佐和子」 「……ん……」 「好きな男の子とかできたら、お母さんにもどんな子か教えてよね」 「何それ」 突然に今まで話題にされることのなかった類の話をされて呆れるやら驚くやらで母親をようやく振り返る。 「別に」 「別にって……」反論しようとしてまるで思い当たる事が無いことを思い出した。そういえば昨日母親とヨシ婆が畑で立ち話をしていた。もしかして澤田のじっちゃんから流れた噂が耳に入ったか……いや、どちらにせよ他の幼馴染達も遊んでいるあの場所で少年と肩を並べている所を散々他の人にも見られているのだから噂にならないわけがない。 「違うわよ、そんなんじゃないんだから」 「そう?」ふふ、と笑う母親に対して更に慌てる。 「そうよ、絶対に絶対にそんなんじゃないんだから」 「まぁ、そのうちお母さんにも紹介してね」 最後にそう言い残し「明日からまた仕事やけん先に休むわね」隣の部屋へ姿を消した。 「もう……そんなんじゃないのに……」 半ば呆れ、怒りながらパタンと閉じられた襖にぶつぶつ言いながら湯呑に残された麦茶を飲み干す。 一方、襖の向こう側では母親も布団に入りながら聞かされた噂話を反芻していた。 この付近の子ではないらしい。どこか違う村の親戚の子供か。昼前から夕方空の色が変わるまで海水浴場前の堤防でずっと話をしているらしい…… ――まぁ、清く正しい男女交際じゃない。あれこれ五月蝿く言っても感情逆立てるだけよね……それにしても…… そう、この付近の子でないとすればいずれ夏が終わる頃にはどこか街か都会か帰ってゆくのだろう。そうしたら娘はどうするのだろう…… ――文通でもするのかしら―― 年頃になってきた娘が急に愛しく思え「可愛いこと」声には出さずふふふと笑いながら眠りについた。 台所では洗い物を片付けながら佐和子がまだぶつぶつ言っていた。 「だいたい、あれが母親の言うこと?親だったら子供が知らん男の子と仲良ぉしとったら心配になるもんやろうに、紹介してよねって……」 食器を洗い終わるて時計を見ると針は十時過ぎを指していた。 「私ももう寝なきゃ」 最後に玄関の鍵を確認して休もう、サンダルを足先にひっかけて土間に降りた。 ちゃぽん 目の前の海から何かが聞こえた。 同時に、七夕の夜を思い出した。 ちゃぽん…… まるで佐和子を誘っているかのように。 慌てて、しかしそっと玄関を開け海の側へ行く。そこには何もない。ただ雨上がりの湿った空気に波が漂うだけ。遠い沖に目をやるが雲に隠れた月のせいで海と空の境もわからない。 が、佐和子はその暗い沖に再びそれを見た。ぼんやりと光る影はゆらゆらと漂いながら波間に現れたり隠れたりしながら動いている。その度にまたちゃぽん、ちゃぽんと響いてくる。 聞こえるわけがない……本来ならそんな遠くの波間の音なんて、聞こえるわけがない。けれど確かにその塊の動くに合わせてちゃぽんちゃぽんと繰り返す。 しばらく同じ場所で潜ったり現れたりを繰り返していたそれはそのうち海面を滑るようにすすっと一つの方向を目指し進み始めた。 「あっちは……」 いつも、少年と会っていた海水浴場の方向。急な胸騒ぎ。迷う時間もなかった。 サンダルでパジャマのまま、街灯も月灯りも無い淋しい夜道を自転車のライト一つに身を任せ走り出した。 − NEXT− − Top− −Novel Top− 2005.9.6 |