海に宿る月 (3)







 空から降ってくるかのような蝉の声が湾の上で反響し合いさらにやかましくなる夏半ば。
 いつもどおりの朝。いつもどおりの海。一通りの家事を済ませて佐和子が外に出れば道路を挟んだ向かいの海で村で一番だろうと言われる働き者のヨシ婆が今日も背を丸めて網を縫っている。
 いつもどおりに声をかけ挨拶の二言三言交わした後に自転車を走らせる。淡い水色のワンピースの背中がじんわりと汗ばみ、首筋を流れる数本の髪が汗でうなじに絡みつく。

 今夜空では天の川を挟んで牽牛と織姫の伝説が蘇る。

 七夕の話を聞いていた少年の様子ではもしかしたらまともに七夕の飾りなど見たことがないのかもしれない。
――都会では七夕の飾りなんかせんのやろうか――
 あまりにも奇妙すぎる謎。
 子供の頃幼稚園にでも通っていればそこで経験の一つもするだろうし、ちょっとした街中なら駅や公園、公共の場所でそうした飾りの一つくらいあるものだ。
 もしかしたら……そうしたものと縁の無い生活だったのかもしれない……
 そう思えば同情の一つも感じずにはいられない。
 堤防にちょこんと頬杖をついていた彼を思い出せば夏の盛りだというのに焼けた様子もない華奢な白い顔。
――病気か何かでずっと世間から離れた暮らしでもしとったとか?――
 昨夜一晩、佐和子はササを飾りながら考えていた。
――ううん、もし病気やったとしても……
 顔を横に振り想いなおす。
 病気やったんならなおさら、家族がそういう季節の行事やらしてみせたろうとか思うもんやないやろか?入院しとったんなら病院が療養の息抜きに、て何かしらしてくれるやろうし。

 緩やかなカーブを曲がって堤防越しに聞こえてくる海遊びの子供達の喚声。その声を正面から受け止めるように道路に背を向け堤防に小さく腰掛けている白いシャツの背中。佐和子がキキッと自転車を停めた音に笑顔で振り向く、ここ数日ですっかり馴染んだ顔。
「やあ」
 堤防脇に自転車を預けるように倒し唇の端を歪めて苦笑いする。
――やあ、て!やあ、て何その挨拶はー――
 耳馴染みの無い挨拶に心の中が沸騰しそうな勢いで顔が赤らむ。
――気障!――
「何?どうしたの?今日は何か気分でも悪い?」
 自分の挨拶が佐和子を戸惑わせていることなど気付かないで少年はぐっと弓なりに背中を倒し顔を近づけにっこりと笑う。
「ううん、別に……」まぁええわ、正面から見つめてくる視線をかわしながら気を取り直し少年から少し距離を空けて堤防に腰掛けた。
 何気に腰掛けたものの、とりたて交わす会話も思いつかないまま海側に投げ出した足を所在なげに宙でぶらぶらと泳がせる。潮騒と子供達の遊ぶ声が背中から刺さるほどに鳴き喚くセミの声が二人の頭上でぶつかり、降り注ぐ。
「ふぅん」
 突然破られた沈黙に慌てて少年を振り向いた。
「今日は佐和子の方から僕の隣に来てくれるんだ」
「そ、そういうわけじゃないけど!」
 焦って何と返事したものか、解らないまま口が走る。
「そもそも、最初に私の居た場所に後から割り込んできたのはあんたでしょう、別に隣に座りたくて座ってるわけじゃないけど!だけどあんたが居るからって私がここに座っちゃいけないなんてことあるわけないじゃない」
「うん」
 捲くし立てるような口調に少しも驚く様子を見せず柔らかく答える。
「うん、って……解ってるの?ここは私の場所だったのに、あんたのせいでこの何日か、ちっとも落ち着いて……」
――やだ、こんなこと言いたいわけじゃないのに――
 ちょっとずつ、後悔しながら口走る言葉がだんだんと文句になっていく。
 ふと、彼がどんな表情でこの文句を聞いているのか気になって瞳だけが横に動いた。と、同時に頬に柔らかい甘い緑が触れた。
「……何?」
「うん、これ、佐和子が昨日ササの話をしてくれたから」
 掌の長さほどの小さな枝に5〜6枚の細長い葉がそよそよと風になびいている。
「ササ?七夕の?」
「うん、でも僕ササに飾るものなんて何もないから……これだけ、これだけでも七夕ってできるかなぁ」
 はにかむように、少年の白い頬が薄く染まる。釣られて佐和子もカァーッと耳まで赤くなってしまう。
「できるよ!」
「そうかな?」
「うん、あぁ、そうだ、良かったら夕方でもうちに来さいや、うちの飾りわけてあげてもええしお供えもちょっとで良かったらお裾分けできるけん」
「佐和子の家に?」
「せや、うちにおいで。折り紙もようけ余っとるけん、これに合ぅたこんまい飾り作ってもええし」
 少年のかざす小さなササに手を触れる。と、同時に少年の細い指が重なる。慌てて手を引っ込めて、また早口になってしまう。
「うん、あんまり遅い時間やなかったら、夕方過ぎくらいやったらそっちに帰るバスもまだあるし」
 少年が柔らかく微笑みながらその様子をずっと見つめている。
「ちょっとやったら花火の一つもやれると思うんよ、何やったら近所の子ら誘ぉて紹介したってもええし……」
 ようやく落ち着いて覗き込むように少年に振り返る。
 目と目が合う。
「な?そぅしぃ?」
「うん、ありがとう」
「じゃ、うち、場所解るやろか?そこのバス停から乗ったら三つ目の停留所で福浦いう所やけん、そこで降りてそのまんまバスの進む町の方に向って歩いてってな、何もない荒れた庭に百日紅の木が二本、白いのと赤いのが並んである家やから」
「サルスベリ?」
「うん、小さい花がたくさん集まって手毬みたいにまぁるくなったんが幾つも木になっとるんよ。木の幹は縦に茶色い縞がすっと入っててのっぺりしたつるんつるんの木」
 こんな、こんなと両掌で丸を作り花の形を説明する。
「あの辺で百日紅植えとるの、うちだけやからきっとすぐ解る思うよ。それで解らんかったら近所の人にでも聞けばええけん、やから……」
「ありがとう」
 話し続ける佐和子をやんわりと制して少年が口を挟んだ。
「でも……」手に持っていたササを佐和子の目の前に差し出し
「これは佐和子にと思って……よかったら一緒に飾ってやってもらえないかな」
「私に?」
「うん、僕から、佐和子に」
 差し出されたササをおずおずと受け取りながら佐和子は少年を見つめる。少年も佐和子の目を見つめながら「ありがとう」と囁いた。
「ありがとう、て……貰ぉて、ありがとう言うんはこっちやわ……」
 吸い込まれるように見つめる少年の瞳から視線を逸らすことができない。
「ううん、誘ってくれて。だから、ありがとう」
 微笑んだかと思うと少年が身を翻し道へ降りた。
「ありがとう、佐和子」
 そのまま振り向くことなく緩いカーブの向こうに白い背中は消えてしまった。
「百日紅やから、白と赤の二本の百日紅がうちの目印やから、ほんとによかったらおいでよね!」
 もう足音も聞こえない。堤防の上に立ち上がり手渡された小さなササを頭の上で大きく振り回しながらカーブで消え行く道の向こうに、大きく叫んだ。そして、もう見えない少年の背中を十分に見送りながらササを眺め思った。
「これも、飾ったげよう。もしかして本当に来たらきっと喜ぶやろぅけん……」



 山沿いに登り始めた上弦の月がその姿を海面に映し頼りなく波に揺られる。
 供え物の飾られた縁側に佐和子はシンと立ち尽くしその様子を見ている。
――来るだろうか――
 もしかしたらものすごく突拍子もない事を言ってしまったのかもしれない。考えてみれば少年は自分の事を知っている様子だったが、佐和子自身は彼のことをまるで知らないというのに、あんな風に誘ってしまった。こんな夕暮れの時間に家に来いなどと。
 飾られたササが風に吹かれてしゃらしゃらと音を立てる。
 佐和子の手には小さく小さく作られた折り紙の輪飾りと小さな小さな短冊が三枚吊るされ、ササが揺れていた。
「佐和子ぉ晩御飯は食べんのね?」
「うん、お母さん先に食べといて」
 すぐ後の和室から聞こえる母の声に上の空で返事を返す。
 しばらくすると食事を終えた母親も縁側にやってきて娘の隣に腰を下ろした。何を言うともなく黙って蒸し饅頭の乗った盆を佐和子の前にそっと出す。
――まぁ、年頃の子ぉの夏やけんね――
 解ったような解らないような解釈をつけ、海の上に瞳を泳がせる娘の横顔をただじっと見守る。
 月はゆっくりとゆっくりと昇り、それに合わせて海面の月も沖に向って流れてゆく。
 あの海水浴場の方面からこちらに来るバスはもう終わった。
 林の影の下、淡く微笑む少年はとうとう姿を現さなかった。
「まぁ、本当に来られても困るんやけどね」
 見ず知らずの少年を母親に何と説明したものか、考えあぐねていたのも事実。ホッと胸をなで下ろす。同時に例えようのない淋しさが冷たく胸に突き刺さる。
 昼間貰ったササの香りを嗅いだ。ふわっとするよなう酸っぱ甘さはササの本来の緑臭いそれとは明らかに違う香りだった。それはいつもあの少年から風に乗ってやってくる香り。妙に懐かしく胸の奥がざわざわと揺れるあの香り。手渡されてから随分と時間が経ったせいか、ササにはもう残り香も残っていなかった。



 遠い沖で月が揺れる。その灯りの中、波も揺れる。
 ぽちゃん、と聞こえたような気がした。
 別に珍しい物音ではない。海の側に住んでいれば波が堤防にぶつかる音、船が筏にこすれぶつかる音、何かしらいつもうるさく聞こえてくる。
 ただ、佐和子にとってその時それが妙に気になったのは、その音があの遠い沖の揺れる黄色い灯りの中から聞こえたような気がしたから。
「まさか、あんな遠くから……」
 音の聞こえようのはずはない。きっと目の前の海で小石の一つも落ちたのに違いない。そう想いながら足が無意識に動く。草履を履き百日紅の下をくぐり道を越えて堤防を覗く。

ぽちゃん……

 また、聞こえた。今度は間違いない沖の方から聞こえる何か。
「……何……?」
 揺れる黄色い影の中、もう一つ揺れる茶色い影。波間の影とはあからさまに違う、単体で浮かんでいるような何か。
 ふうわりと大きく揺れているかと思えば、じっと波に身を任せるまま揺らいでいるだけのようにも見える。

ぽちゃん……

 また、はっきりと聞こえたそれは確かにあの茶色い影から響くもの。佐和子は何の確証もないがそう信じれた。
 あれは……あの茶色い影は……
 魚ではない。船でもない。茶色い丸い海の生き物。
 佐和子だけが知っている生き物。あの溺れた夏の出会い。

「りりちゃん!」

 随分長い間口にすることのなかった名前を叫んでしまった。
 まるで佐和子の声が聞こえたかのようだった。
 ぽわんと一度大きく浮かび上がり茶色い体を膨らませやわらかな月灯りの中に白い雫をきらきらと散りばめた後、静かに静かに、揺れる海面の月の下へと消えていった。
「りりちゃん……」
 目を疑うような光景に再びその名を口にする。
 母親が何事かとつっかけを爪先にひっかけながら駆け寄ってきた。
「何、大きな声出しよんの」
「今、海のあっちの方に……」
「海に何か?」
 ハッとして口篭る。
「ううん、何でもない」
「何でも無いんならええけど……大きい声出しよるから何事か思うたやない」
 ホッとしながら母は「さぁもう遅いけん家に入り」と佐和子を促しながら玄関に戻る。
「うん……」
 何度も何度も、沖の方へ振り返りながら戻り潜る百日紅の門。
 窓から差し込む月灯りだけが頼りの薄暗い部屋の中、布団に潜って目を閉じてみれば更に鮮明に蘇る記憶。先ほどの沖に浮かんだ塊と重なるあの夏の日の経験。
 不思議に甘い香りのする空気の中、トントンと優しく背中を叩いた茶色い触手。細長い一本が唇にそっと触れ、直接流し込んで来た甘い空気。
――同じ?――
 先ほど見たあれとあの日のあれは同じ生き物なのだろうか。
 解らない……
 助けられて意識も体力も戻った頃、自分がどうやって助けられたか、話す端から笑われた。誰も信じてはくれなかった。信じて欲しくて何度も記憶の断片を手繰り寄せながら説明したが、やがて佐和子自身、とうとう口にする事もなくなってしまった。
 誰も信じてくれない。だけどあれは絶対に、大人たちの言う「極限状態で見た子供らしい幻」なんかじゃない。りりちゃんは、確かに存在するんだ……年頃になり、父を失った現実の生活の中で、それをりりちゃんだと思い込んでいた気持ちは薄れてきたけれども、違う形で、りりちゃんにとてもよく似た海の生き物……きっと誰もまだ見たことのないような未確認の生き物がこの近くの海に生息していて、自分を助けてくれたのだ……そう思う気持ちはますます強くなっていった。
 いつか、必ずもう一度あの生き物に会いたい。その気持ちだけでいつも海を見ている。夏ともなれば、自分が大人たちに発見されたあの場所、今では堤防が道と海を隔てて続いているがあの頃はまだ工事中だった、テトラポットの並んでいた地元の子供達が遊ぶ海水浴場。

 早朝から、佐和子は庭の隅に古いドラム缶を置いただけのゴミ焼き場でササを燃やした。母親も出勤を少し遅らせて付き合ってくれるた。
「それは?そのササは燃やさんでええの?」
 聞かれて、手にしていた小さな飾り付きのササをぎゅっと握り締める。
「うん、これは……流そうと思ぉて」
 佐和子の家の庭で飾ったとはいえ、あの少年が取ってきてくれた一枝、できれば彼にも七夕の締めくくりを一緒に見送らせてあげたい。

 いつもの堤防でいつものように「やぁ」「おはよう」と言葉を交わした後、二人は自転車を置き去りにして少し歩いた。海に入る細い砂利道を過ぎるとその先には湾を囲むように高い木々を抱えた森がうっそうと茂っている。暗い涼しい遊歩道を行けばその先には小さな灯台がちょこんと置かれ、眼下の崖にぶつかり飛び散る波しぶきを見守っている。
「こっからやったら、沖まで流れると思うんよ」
 遠い沖を指差し少年に示す。
「ほんとに?何も願い事書かんと流してしもうてええの?」
 崖の下の風景をまるで初めて見るかのように呆然と眺めていた少年は「うん、このまま流そう」嬉しそうに小さく笑った。
「じゃ、投げるよ」
 腕を大きく振り上げ枝を投げるとそれは宙で弧を描きながら落ちてゆき、波間に喰われ消えていった。

 しばらく灯台の元で座り込み黙ってササの消え行く様子を眺めていたが、ふと佐和子が疑問だった事を口にした。
「あんたさ、いっつもあそこでボーっとしとるけど、面白いん?せっかく田舎に来とるんだから他に遊び行ったりすればいいんに」
 くすくすと笑いながら彼が答える。
「佐和子こそ、毎日あんな所でボーっと夕方まで海を見ていて。友達と遊びに行くとかすれば楽しいだろうに」
「私は……別に……」笑われて照れて目を逸らせば
「泳ぐわけでもないのに」とまたからかうように問われる。



 昨夜見た海に浮かぶ茶色い影。
 何年ぶりだろう、急に思い出してしまった。
 あの日の幻のような奇跡を、誰かに信じて欲しいと、聞いて欲しいと想いながら一生懸命語っていたあの頃の自分。
 誰に話しても信じてはもらえない。影で笑われていた事も知っている。けれど今、また思い出してしまった。
 信じてほしい、聞いてほしい。誰かに。ずっと、ずっとそう胸に秘め、海を眺めながら探していた。



「私ね、小さい頃、この海で溺れたことあるんよ」
 一瞬、少年の存在も忘れた。まるで独り言でも呟くように言葉が出てきた。
「もう、死ぬかと思ぉた。苦しくて、そのうち苦しくも無くなって、目の前で自分の吐いた息が泡になって遠くなっていくの、覚えてる……」



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2005.8.14