海に宿る月 (2)







「きみは?泳がないの?」
 後から急に声をかけられ佐和子は驚いて振り返った。

 季節は、夏休みに突入していた。

 家からほど近い、湾を幾つか越えた所にある小さな海水浴場を包むように道なりに広がる堤防の端に腰掛て幼馴染や都会から里帰りしてきた子供達のはしゃぐ様をぼんやりと眺めていた。
 ふと後から柔らかな声。
 堤防に頬杖をつき佐和子を見上げる少年。
 細い、色素の薄い髪と瞳。白い肌。
「もしかして、泳げない?」
 悪戯っぽい笑顔に佐和子はムキになってしまった。
「泳げるわよ!この辺の子供で泳げない子なんて居るわけないじゃない」
「じゃあ何で皆と一緒に泳がないの?あそこにいるの友達でしょう?」
 友達、という言葉に佐和子は返す言葉を失ってしまう。
「友達……なんかじゃないわ」
 少年からぷいっと顔を背けて目線を足元でぶらぶらしていた白いサンダルに落とす。
 確かに、目の前の海で泳ぎに興じている少年少女達の多くは友達と言うにふさわしくない。皆年齢に三つ四つ上下の差はあれどその関係は友達と云うよりも遥かに密接だろう。
 幼い頃から男女の別無く風呂を共にし、夏、暑い日に遊び疲れれば風の通る部屋で布団を並べ、歩いて一時間もかかる小学校への道のりを朝早く、有遅く共にした。悪戯も怒られる時も褒められる時も大概は同じ顔が並ぶ。血こそ違えながらも血縁と呼ぶに相応しい。
 しかし、今、佐和子は彼らと共に暑い夏の盛りを謳歌できないでいる。
 今、というより、あの幼かった恐怖の夏の日から。
 一緒に海に入れない、ただそれだけで短い夏の間の日中、佐和子は絆から離れてしまう。涼しい夕暮れから始まる花火には加われても、海を共にできない疎外感。
「キミ、地元の子でしょう?」
 ほんの数分、佐和子が想いふけって黙り込んでいた最中、突然に会話が戻る。
「え……えぇ、あっちの方にちょっと行ったとこにある福浦の子ぉやわ」
「あの辺の子がここまで泳ぎに来るの?皆そこの海で泳がないの?」

 家の眼の前の海で泳ぐのは、小学校までの子供だけだ。ある程度泳ぎに自信もつき子供ながらに独立心なぞつきはじめた子らは親の目の届かない所で遊びたがる。海もまた然り。泳ぐのに、小学中学年から中学生くらいの子供達はこの大きめの砂利がごろごろと足を滑らせる湾まで来る。ろくにまっとうな設備も無いが、それでも親や親と呼ぶに近い近所の大人達の監視のゆき届かない“名ばかり”の海水浴場は魅力的だ。更に高校生ともなれば車を持った先輩やら友人と共だって更に遠くの海へ、時には県を越えて砂浜の美しい海水浴場まで行く。

 簡単に、少年に説明をしながら「なんで身もしれん子にこんな内々の話しよるんやろ」と不甲斐ない気持ちになってしまう。その気持ちを消し去るように頭を小さく振り少年を改めて見つめなおす。
「あんたは地元の子ぉやないんやろ?」
 佐和子の気持ちを知ってか知らずか、少年は爽やかにただ一言だけ答え返した。
「うん」
 しばらくは続く返事を待っていた佐和子だったが、拍子抜けしたようにまたうな垂れる。
 普通なら、そう聞かれれば「うん」の後に、どこそこの村の親の里帰りについてきただの大阪だか東京だか、どこから来ているだの程度の答えはついてくるだろう。自分の住んでいる村か隣り合わせた辺りの村の親戚でこのように同い年らしい子供なら夏の祭りやこの海水浴場で一度か二度は見ているはずだし、子供達というものは始めて知った子供同士でも随分と楽に友達になれる。一度友達となれば村を越えて湾を越えて、各家々に呼び合い花火などして短い夏を謳歌しあうもので、近隣の村に夏だけ遠くの街からやってくる子供であっても、大概顔は知っているものだ。
 うな垂れながら記憶の糸を辿るが佐和子の頭には、この、細面で華奢な少年の姿がまるで現れない。と、いうことは、この夏初めてこの辺りに来た子供だということになる。
「それで?どこの子ぉなん?」
 拍子抜けた気持ちを奮い起こし問い続ける。
「あっち」少年はゆっくりと海の向こうを指差した。
「あっち…て、あん海の向こうは九州やよ?」
 突拍子もない返事にあっけにとられるが、すぐに思い返して言い直した。
「あぁ、あっちやったら、先の方の湾かなぁ小浦とか四つ浦とか……?」
「うん、まぁその辺」
 曖昧な返事。「なんや、よう判らん子ぉやなぁ」想いながら佐和子は少年に対して気持ち悪さを感じ始める。海に向けて垂らしていた足をくるりと堤防を越えさせ道路に下ろした。
「私、もう帰らないかんけん」
 すぐ脇に置いてあった自転車に飛び乗る。その後姿にまた爽やかにハスキーボイスな声が降る。
「明日も来るよね?ここ。毎日来てるもんね、佐和子」
「え?」一瞬の間を置いて振り向き、けれどそこには既に少年の姿は無かった。堤防を越えてテトラポットの下にでも入ったかと思ったが、ざわざわと胸をなで下ろす奇妙な感触がそこに足を運ぶのを躊躇わせた。

 ざわざわ……

 ざわざわ……

 それは夜の闇の中「ざぷんざぷん」と繰り返す筏と船のこすれる音にとても似て。

――きっと、私が自転車の鍵を開けてる間に堤防を越えて海に入ってしまったのよ
 もしくは
――あの湾の急カーブの向こうに走って帰ってしまったんだわ――

 でも、何故?

 確かに、少年は佐和子の事を知っていた。「佐和子」とその名を呼びかけた。
 そして
『毎日きてるんでしょ?』
 佐和子がその場所に毎日やってきて海で泳ぐ幼馴染らを日がな眺め続けていたことも知っていた。
 何もかも、見知らぬ少年に見透かされていたようで気味の悪い夜だった。
「だけど……」
 きっと、あの子は知らないわ。私が毎日見ていたのは幼馴染達の泳ぎなんかじゃなくて……
 一つだけ、自分の本当の気持ちが知られずにいたと思える安心が、ようやく彼女を眠りに誘った。

 翌朝、母親が出勤して、適当に掃除や宿題など済ませた佐和子は家の前に出て海に向って叫ぶ。
「ヨシばあちゃぁーん」
 船付きの筏の上で麦わら帽子をかぶり朝から網縫いをしていたヨシ婆はその声に振り返り「おぉ佐和ちゃんかぁおはようぅ」と返す。
「あんなぁ、夕べお母さんが買ぉてきた水羊羹があるけん、よかったら食べてぇやぁ」
 筏の橋を決して渡ろうとはせずにその堤防の上に水羊羹を乗せた皿を置く。
「ありがとなぁ」
 佐和子がこの橋を渡ることは決してないだろう。それをよく知るヨシ婆は手を休め、よっこらしょと腰を上げた。佐和子の笑う堤防の側までおっとりと歩きやって来て
「いつもありがとうなぁ」
 にこにこと皿を受け取りながら笑う。
「ええんよ、ばぁちゃんにはいつも畑のもん貰うとるし。おかげで私の小遣いもかなりええことになっとるけん」
 老婆が更に笑う。
「そぉかぁそぉかぁ、やったら、今夜もうちの南瓜でも持って行き。ナスもええ頃にできとるけん」
 最後にありがとうよ、と笑い残しヨシ婆は桟橋に戻った。
 本当ならこんな世間話も許されない忙しさの婆さんだ。朝の早いうちに嫁と山と畑の手入れなどして次に桟橋に降りてくる。嫁が家の片付けだの昼餉や夕餉の支度などしている間に網縫いを片付けてしまわなければいけない。船は夜出て朝戻る。
 桟橋によっこらしょ、と緩い動作で再び座りまた黙々と網に向う。その後姿を見送っていつもの道を海なりに自転車をこぐ。昼にはまだ早いこの時間、あの湾ではもう皆が泳ぎに興じていることだろう。朝の支度と片付けを終わらせてからそこへ向う佐和子はいつも皆と一歩出遅れる。よしんば、足並みがそろったとて一緒に遊ぶわけでもないのだが。

 堤防はそのちょうど上にそびえる林が木陰を作り、そこに山から甘い香りを連れて下りてくる風と海面をなぞりながら走り抜けてくる潮の香りを含んだ風が適当に心地よい。自転車をセメントの塊に寄りかからせ「よいしょっ」とその上に腰掛海ではしゃぐ皆を遠目に見おろす。
 視線はやがて子供達の塊る浅瀬から離れ自分の村に向う湾のとっさき、そして沖合いに流れてゆく。

「やっぱり、今日も泳がないの?」
 いつの間にやってきたのか、足音も気配も感じさせずに昨日の少年が隣でちょこんと頬杖をついて見上げていた。
「また……」
 警戒しながら、呆れながら少年の側から体を離れる佐和子の意図とはうらはらに少年はえいっと堤防を上り海に向って足を投げ出しちょこんと少女の隣に座った。
 そこに、車の止まる音が短くキキッと聞こえた。
「おぉ、佐和ちゃん、なんやボーイフレンドでもでけたんか?」
 白い軽トラックから浅黒い顔の年寄りがドアを開け降りてくる。
「澤田のじっちゃん」助かった、とばかりに堤防から飛び降りた。
「ボーイフレンドなんかと違うわ、昨日会うたばっかりで得体もしれんヨソの子やわ」
「また、キツい事言わんと。それよりちょうどええとこで会うたわ。ササのええの切って来たけん、佐和ちゃんちにも分けたるな、小振りなんやが二本でええやろ」
「うわぁ、助かるわぁ、そろそろ自分で山に取り行かなあかんて思うとったんよ」
「じゃぁ、玄関に置いとくけんな」と老人が車に乗り込み「せっかくのボーイフレンドなんやけん仲良ぉせんとあかんぞ」ニヤニヤと笑いながら車を走らせ始めた。
「違うーそんなんと違うー」
 走り行くトラックに叫ぶが届いている様子も無いまま緩いカーブを曲がり湾の突先の向こうに消えていった。
「もう……」
 佐和子が夏休みに海で泳ぐことは無くとも、他のクラスメイトなどと遊びにも行かずこうして一人の少年と肩を並べていた事実は、一時間も経てば「あの娘も年頃になりよって、そういえば最近なぞはハッとするほどきれいになりよったからなぁ」などと尾も鰭もダラダラと長く連なって噂となっていることだろう。
「あぁーあ……」
 頭を抱えて堤防に顔を伏せる。にも関わらず噂になるであろうもう当のもう一人は涼しい声を佐和子の伏せられた頭にこぼす。
「ねぇ、ササって?」
 何を悠長に……今はそれどころじゃ……「あんたのせいで!」罵ろうと顔を上げるとそこには興味で大きく開かれた眼が零れ落ちそうな勢いで輝いていた。
――もう――
 呆れはしたものの怒る気はもう失せた。
「ササって云えばササでしょう。七夕のササよ」
「七夕?」
 七夕?何を問い返すのか、まさか七夕を知らないとは云うまい。そう想いながらハタと気が付く。
「あぁ、あんたんとこは新暦なんやろ。こっちでは旧暦で七夕やるんよ」
 少年が不思議がっているのは八月のこんな時期にササなど用意している事だろう、佐和子は判断した。
「ふぅん……」
 納得のいくようないかないような相槌を打つ。
「七夕って、どんなの?」
 この地方での七夕がどんなものなのか、と聞かれたのだと佐和子は思った。
「こっちではね、まぁ、都会と一緒やと思うよ……私がもっと小さい頃はいろいろ違ぉたんやけど」

 懐かしい、遠い昔の情景のようにも思えるが、それはほんの四、五年前までは実際に行事として行われていた光景。

 玄関やら庭に願いの短冊や折り紙の輪で作った縄、金と銀の月に星、右に彦星左に織姫。飾り付けられた二本のササを飾り七夕様へのお供えはナスににがうりスイカに桃そして花ならヒマワリに白い夏百合。
 陽が傾き始めれば子供達は各々色鮮やかな提灯を手に先頭としんがりに年長の子供、挟まれるように他の子供達。普段家の廻りや山を走り回り海で暴れるように泳ぐ姿からは一転したおごそかさで一列成して海に寄り添い道をゆく。誰かの提灯蝋燭が消えれば他の子からの火を貰い付け直し、何度かそれを繰り返しながらゆっくりと、とっぷり陽の落ちる頃に合わせて沖に一番近くなる湾の突先に辿りつく。
 年長の子の掛け声に合わせて全員が声を潜め胸内で願いなど唱えながら静かに海へ向って提灯を投げる。年長の子達が持ち合わせた三個四個ほどの懐中電灯を頼りに街灯の無い暗い海岸沿いを、ワァーっと暗さと怖さで駆け出したいのを我慢して皆再び静々と戻る。
 頼りない月が送る頼りない灯火の中、揺れる淡い影を従い帰る提灯行列。その先には冷えたスイカと花火が待っている。
 朝大人が見守る中海に流す飾りのササが七夕を締めくくる。
「でも最近は夜子供らだけでは危ないとか環境がどうとか言うて提灯行列も無うなったし、ササも流さず燃やしちゃうし」
 ごく短い年月のうちに時代の流れを身に染みた。昔懐かしいと言うにはまだ若すぎるだろうけど、急な時の変化が胸を愁いさせる。
「そうか、あれが七夕なんだ」
 遠い沖を眺めながら少年がぽつりと囁いた。
「え?」
「毎年、同じ時期になると色の鮮やかな丸いものや飾りのついた木が流れてくる、あれが七夕なんだ」
「流れてくるって、アナタの所に?」
 そう聞かれて少年は歯切れ悪そうに返事をする。
「うん、僕の…僕の…住んでる…いや、とにかく、海に」
 そう呟きながらまた遠い沖を見つめる。
 少年の横顔が、白く淡く、あの頼りない月の灯火に重なる。
「悪いけど、私、帰らなきゃ。ササがもう来てるはずだし、準備しなきゃ」

 昨日はただ気味が悪いと思っただけの、少年の横顔が急に真実味を帯びてくる。

 月明かりにゆらゆらと揺れる長い影。自分達の歩みに合わせてついてくる。
 それは、子供心に不思議で魅惑的で、また、反面、恐れと不安。自分の動きに合わせてそれは頼りなく動く。
 最後の提灯行列をした年に父は死に母子二人となった、先の見えない不安と恐れを見破っているかのような頼りない月の影。

 あの少年は、あの月の影を思い出させる。

 汗だくになりながら家の玄関前に自転車を雪崩れ込ませると、小振りだけれど美しく緑に輝く二本のササが並べて置いてあった。
 青い香りを放ちながら耳に心地よい葉ずれの囁き。ようやく我に返って顔が熱くなる。

 こっちでの七夕の風習を知らないだけなら、それを説明するだけで良かったではないか。それを、感情あらわに感傷じみた口調で語ってしまった。
 何故、身も知らない人間にあんな話を……
 名前も知らない、どこの村の人の親戚なのか、どこから来ているのか……

 何も、知らない。
 けれど、彼は知っている。

 自分の名前、そして夏休みになれば殆ど毎日あの海辺を時間の許す限り眺めていることを。
 喉の奥に濁った生ぬるい感触が走り抜ける。
 その一方で、耳元に残るハスキーな声の涼やかさ。そして奇妙に甘く香るトーン。
 そういえば……あの甘い響きには、覚えがある……考えてみる。思い出そうと、頭の置くから胸の奥まで、小さな小人達を総動員させて大掃除している気分になってくる。

 気持ち悪い。
 けれど、もしかしたら、自分はあの少年を知っている……

 山の中に溢れる青い蜜柑の香りが佐和子の胸奥まで支配するように流れ込んでゆく。

「あぁ、七夕の準備をしなくちゃ……」
 昔のような情緒は失われたけれど、それをすることで母親が喜び、自分もまた気持ち豊かになる。
 もう懐かしいあの提灯の光景は無いけれど。
 懐かしい、その感覚に胸がキュンと響く。


 明日も、きっと、あそこへ行けばあの少年に会うだろう。
 いろいろ、聞きたい事がある。聞かなければならない事がある。
 台所の窓の向こう側で深まってゆく夏の夕暮れ、ヨシ婆の畑から貰った南瓜を煮る甘辛い香りが言葉無く、佐和子を唆した。


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2005.8.14