海に宿る月 (1)







 沈んでいく。
 あかるい陽射しを反射して緩やかに揺れる水面を目指し小さな腕を伸ばすが、遥か届かず、逆にどんどん遠ざかってゆく。

――ママ――

 薄青く明るかった海面はまるで少女を見捨てたかのように冷たく光り、暗い深い底が手招きをはじめる。
 上に――上に――戻ろうとばたつかせる手足にまとわりつく重い水底の塩水は体温を奪い生にもがき死に抗う少女から体温を奪い諦めを誘う。自分を包む冷たい海水の中で、暖かい一滴が目頭に揺れた。それを合図にするように、喉の奥に我慢して留めていた最後の空気がゴポ……と不快な音を響かせながら小さな丸い泡となって一斉にはじけ出た。

――ママ――

 最後の意識が暗く揺れはじめる。

――死んじゃうの?わたし、死んじゃ……



 海沿いの小さな村ではその規模にふさわしくないほど騒ぎが大きくなっていた。
「町のダイビングクラブに友達がおるけん頼んでみる」
「人手は多い方がええ。急いで頼む」
 漁船をつける筏で老婆が正座をし手を合わせる。
「仏様ぁ佐和ちゃんをぉ、どうか佐和子をぉ」
 沖に流されて「たすけてぇ」と叫んでいた少女にいち早く気が付いた幼馴染達が筏で漁の為の網縫いをしていた大人に知らせ泳ぎ自慢の青年が沖に泳ぎ出たが、もう小さなその姿は水面から姿を消してしまった後だった。

 瀬戸内海と太平洋を結ぶ海沿いの、小さな湾を抱えた蜜柑の香り立つ、年寄りと僅かな若夫婦、そして更に数少ない子供たち。そんな静かな漁村を何十年かぶりに賑わせた事件だった。



 遠くなる……薄青かった陽の光……既に少女に意識はない。
 その小さな背中をふわりと細く軟らかい一本が抱きとめた。
 一本は二本になり、二本は三本になり、さわさわと、やがて数え切れない数十本となり少女の背中を抱きかかえる。
 同じ茶色の同じ感触のふさふさとした触手達は一つの大きな蓋を作るようにして少女の上に覆いかぶさってきた。小さな肉体の上でそれらはわさわさと動き、触手の内側に隠れていた小さな気泡をかきあつめ大きな一つの球にしてゆく。
 まるで、風呂場で洗面器をうつ伏せにして空気の塊を中に作りそこに顔を突っ込み素潜りごっこを楽しむ子供のように、触手を持ったそれは空気の球を大事そうに抱えながら少女の上に覆いかぶさってきた。
 即席でできた空気の球の中。一本の触手が、それまでうごめいていた触手達とは違う動きをみせる。それは少女の胸元をぽんぽんと叩くと次に口元へゆき小さな膨らみを中で動かしながら少女の口の中へ“ふぅー”と何かを吹き込んだ。
 その行為を三度ほど繰り返した頃、少女がようやく飲み込んでしまった海水を吐き出し大きく息を吸いながら薄く目を開けた。
「りり…ちゃん…?」
 目の前でわさわさと蠢く茶色い触手達を見つめながら呟く。
「りりちゃ…ん…?」
 もうろうと手を伸ばしながら……二度呟いた。が、体力の限界は再び彼女を眠りの底に誘う。
――りりちゃん――



 それは去年、冬の始まり。まだ幼稚園に通っていた頃。
 幼稚園では様々な生き物が飼われていた。池では金魚にザリガニに鮒に田螺に亀。教室ではメダカにカブトムシや鈴虫の卵に幼虫。
 佐和子は園庭の隅に建てられた小屋に住むウサギの担当だった。
 小屋には産まれて二年目の若いウサギと、彼女が入園した時には既に成長し、年を取った茶色いウサギが一匹。年寄りのウサギはそのせいか動きも穏やかで、長年園で飼われていたおかげで子供にも慣れていて、若く機敏な二匹より遥かに子供達から愛されていた。
 もちろん、ウサギ当番となった佐和子にとっても、彼女は特別なウサギとなった。



「りり…ちゃ…ん…?」
 弱々しく腕を伸ばしながら懐かしい茶色いウサギの名を呼んだ。
 目の前に浮かぶ茶色い触手の塊は小さな気泡を佐和子に向かって吐き出しながら、少女の問いかけに答えるよう、緩やかに巨体を反応させた。

 りりちゃん……
 りりちゃんなのね……

 甘酸っぱい空気の塊の中ですっかり安心したように、再び、穏やかに瞼を閉じた。



 佐和子が発見されたのは、彼女の家が在る小さな湾をさらに越えた隣の村の湾だった。建設中だった堤防のテトラポットの隅で穏やかに横たわる少女を、探索に加わっていた青年団の一人が見つけた。



 小さな漁村で起こった、小学生になったばかりの少女が溺れ一時とはいえ行方不明になりながらも助かったという小さな事故は、他の海水浴場での死亡を含む大きな水難事故に隠れ公になることのないまま幕を閉じた。



 そして、幾度目かの夏。



 白いブラウスを汗で滲ませ黒いひだスカートをひるがしながら寂れた海岸沿いを自転車で駆け抜ける少女が、居た。
 小さいく開けた湾に出ると古い木造家屋が立ち並ぶ一筋の道路が現れる。家々の前を流れる国道、その向かい側には堤防を越えて海。逆に、家屋の後ろにはきれいに手入れされた蜜柑の山がもっこりとそびえ立つ。
 シャーッと音を立てながら走らせていた自転車を一つの桟橋の前で停め、彼女はその向こう海に浮かぶ筏に向かって叫んだ。
「ヨシばぁちゃーん」
「おぉ、佐和ちゃんかぁ、今もんたんかぁ?」
 小さな筏の上で漁に使う網の綻びを縫っていた老婆がその手を休めて振り向き答えた。
「汗かいたろう、麦茶でも飲んでいかんかねぇ」
 脇に置かれた大きなヤカンを指差しながら叫ぶが、自転車の少女は首を横に振る。
「いんやぁ、晩御飯の準備もあるしぃ」
 老婆も深くは誘わない。
「そっかぁ、じゃぁ、うちの畑ににがうりのできとるけん、よかったら捥いでいきぃ」
 少女は大きく手を振り「ありがとう」と叫ぶとペダルに足を戻し、再び自転車を漕ぎ出した。その後ろ姿を見ながら老婆は溜息をつきながら一人呟く。
「やっぱりまだ海は怖いもんかねぇ。もうあれから八年は過ぎたんにねぇ」



 佐和子が帰っても、家には誰も居ない。老夫婦は三年ほど前既に他界した。父親はそのすぐ後に交通事故で他界した。その後の生活のためにパートに出た母親は夏の陽の高い季節でさえ明るいうちには帰らない。
 仕事に疲れて帰る母親のため学校から帰宅して僅かな時間の間に家の中をきれいにし、晩御飯の支度などするのが、今の彼女の役目だった。
 古い平屋の家に母娘二人。大きな硝子張りの玄関を開ければ、慎ましいその暮らしには不釣合いな広い土間がひんやりとした空気を用意して暑い外から戻る佐和子を待っていた。
 自転車を土間に入れようとふと下を見ると玄関脇に大きく長細いスイカがごろりと転がっている。
「誰やろう……澤田のじっちゃんかなぁ……宏んとこのばぁちゃんかなぁ……」
 たいていの家では漁と山を兼業しながら畑も作り自給自足に近い暮らしをしている。その中で細長いスイカを作っていて気安くおすそ分けなどしてくれる人の顔を何人か思い浮かべながら台所に運ぶ。自転車の後ろに積んでいた学校の鞄を居間に放り投げると、先ほどのヨシ婆の畑から貰ってきたにがうりを眺め「まぁ、誰でも、解った時にお礼でけるように日持ちのする煮物でも作っとけばええか」にっこり笑った。



「なぁ、佐和子……」
 陽が落ちて暗くなった頃仕事から帰った母親が娘の手料理に普段通りに箸をつけながら幾度となく繰り返された話をまた口にする。
「やっぱりこん家売って町に引っ越さんかね?あんたも学校近くなるし、もう受験なんやから塾に通いやすい所でアパートでも借りんかね?」
 佐和子は、テレビのリモコンをカチカチと玩びながら
「まぁたそん話?そりゃぁ……お母さんには通勤にも不便で悪いけんど……私、こん村を出る気には……なれんのよ……」
 どうしても……最後の一言を口の中でもごもごと申し訳なさそうにこもらせながら母親から目をそらし、見るわけでもないテレビの画面を見つめる。
「けんど、あんたもあんなことがあってから海が怖かろう……こんな暑い盛りになっても昔みたいに他の子に混じって泳ぐこともでけんで、辛かろう?」
 テレビではお笑いの番組が流れているにもかかわらず、部屋の中を冷めた空気が漂う。母親が佐和子の様子を見つめながら一口、一口、休み休みに箸を口に運ぶ。
「なぁ、そのにがうりの煮物、うまくできたと思わん?」
 突然に、佐和子が笑いながら話しを変える。
「今日ヨシばあちゃんにもろうたんよ。まだまだいっぱい畑ににがうりできよったけん、この夏もようけ食べさせてもらえるなぁ」
 母親が眉間に皺を寄せながら箸を置いた。
「私の通勤やらなんかどうでもええんよ。なぁ?佐和ちゃんもっと自分の事考え?あんたはもう受験なんやし、塾だって行きたかろ?何より……」
 何よりも、こんな広い家の中で自分が仕事から帰るまで、娘が一人で居なければならない、母親にはそれが心痛んだ。大人の自分でさえ夜中にふと目覚めれば心細さと寂しさで体が震える。なまじ、かつてこの家が賑やかだった頃を知っているだけに。
「あん頃は家の中で絶えず誰かの声がしとったねぇ。正月には土間で餅ついて、盆には庭で麻殻焚いて……けんど今ではうちら二人きりやない、広すぎる家は……何や寂しいわ」
 母親のこのセリフも、既に何度目か。
 そして佐和子の返事も、同じく何度目か。
「ごめん、お母さん……それでもまだ、私ここにおりたいんよ……海は確かに怖いし広いこの家はほんとに寂しいけんど……」
 ふう、と小さく溜息をつき、母は再び箸を持ち直す。
 もう、これ以上は何を言っても無駄なのだ。
 この村にどんな想い入れがあってか、恐れる海も寂しい古い家も及ばないほどの愛着があるのか、一度たりともこの手の話に娘は良い顔をしてはくれない。
――しょうがないわ、まぁ、またいずれかの折に――
 母親の胸の中で家を売り引っ越す話はまた持ち越しとなる。

 その胸中を知ってか知らずか、佐和子の心の中で違う想いが膨らみ増える。



――りりちゃん――



 幼稚園最後の年の冬、佐和子が世話をした茶色いウサギはとても静かに寿命を迎えた。
 珍しく雪が積もった。十何年ぶりの積雪だとか、ニュースにもなった雪の日の朝。
 雪のせいで随分遅れたバスに乗り、幼稚園に着いて教室へ行くより先に一番最初に向かった小屋の中。他の若いウサギが佐和子に気付いて餌をねだりに走り寄る姿を余所目に、茶色いウサギはひっそりとまだ眠っていた。
「りりちゃん?」
 寒いのかな?心配になって戸を開け中に入る。パサパサの毛並みが年齢を伺わせる。
「りりちゃん、寒いん?」
 眠っているのであったら藁でもかけてやろう、そう思いながら抱き上げたウサギは、冷たかった。降っている雪よりも。頬を刺す風よりも。
 どっしりと重い体。閉じられた瞳に薄くこびりつく赤茶けた目やに。
 ぐにゃっと柔らかい腹に反して硬い腕と足。
「りりちゃん?」
 喉の奥から流れ込むざらざらとした空気が胸をはたはたと震わせながら鼓動を早める。
「せんせぇー!」
 茶色い塊を抱きしめながら教員室に駆け込んだ。

 幼稚園の片隅に、飼っていた動物昆虫魚の眠る場所があり、所狭しと小さな板切れが並ぶ。古いものはもうそこに書かれた文字さえ読めない。
 そこに新しい板が植えられた。りりちゃん、と覚えたての覚束ない文字の書かれた板切れ。
 佐和子は泣きながら板にウサギの名前を書いた。
 その横で園長が語りかける。
「大往生、て言うんよ。りりちゃんはもう年やったけんねぇ。皆に大事にされて、嬉しかったよ、幸せやったよ、て言いながら、特によう面倒見てくれた佐和ちゃんに、ありがとう言いながら死んだんよ。やけん、天国でも幸せにおってね、てお祈りしながら埋めてあげようね」

 死は、そう珍しいものでも無い。
 年寄りの多い村では絶えずどこそこの誰かが何歳で死んだの、どういう病気で死んだの、そんな話を耳にする。
 年老いての死は葬式というより祭に近い。
 皆、偲びながら思い出話をしていくうちに、葬式はやがて祭になるのだ。
 だから佐和子にとっても死はそう遠いものではなかった。
 が、ただ一つ違ったことは、自分より小さなものが死ぬということ。佐和子にとって死んでゆく殆どの人間は自分より遥かに大きく見た目にもはっきりとした年寄りばかりだった。だから……
 自分より小さく、見た目にも年齢のよく解らないウサギの死が理解できなかった。
 墓標を作り抜け殻となった肉体を埋めてもなお、理解できなかった。
 佐和子の小さな胸の中で、りりちゃんの死は受け入れられる事ができなかった。



「りりちゃん……」
 夜も更けて眠りにつくはずの布団の中で、眠れずに思い出す。
 あの時、あの海の中。溺れて苦しくて諦めて、死への扉をくぐりかけた自分を、助けてくれたあの何本もの触手。
 誰に話しても「極限状態だったからね、幻覚を見たんよ」と相手にされない。
 それでもしつこく話そうとすると、溺れ死にかけたショックでおかしくなったらしいと違う噂が流れ始める。
 やがて誰にも話せなくなってしまった。

 だけど、あの時助けてくれた茶色いふわふわの塊は確かにあのウサギだった。
 りりちゃんは死んでいなかったのだ。どういう理由かは解らないが、とにかく埋めたはずのりりちゃんは土の中から這い出て住処を海に変えたのだ。
 そして、海の中で息ができなくなって苦しんでいた私を助けてくれたのだ……
 佐和子はずっとそう信じていた。
 年齢が進むほどにそれが如何に現実離れした話であるかを思い知ることになっても、それでも彼女は信じ続けた。

――りりちゃんは、確かに海の中で生きていたのよ……そしてきっと今も――

 引越しをしようと言う母親の提案を拒否してしまう、それが理由。
 りりちゃんは、きっと今も海の中で生きている。

 海は怖い。溺れたあの日から。ずっと、ずっと、海は怖い。
 けれどそこにはかつて大好きだったあのウサギが住んでいる。

 勿論、中学生ともなった今ではそれを盲目的に信じているわけではないが、あの日、自分を助けてくれた茶色い細長いうごめく塊は、今でもはっきりと覚えている。
 薄く開いた瞳に入ってきたのは大きな大きなうごめく何本もの毛糸を束ねたような塊。

 りりちゃんでなくてもいい。けれどもう一度……もう一度……
 自分の命を助けてくれたあの不思議な生き物に会いたい。



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2005.8.14