雪の日 寒い、寒い一月の朝、聡子は緑と白のツートンカラーの小さなカプセルを一つ、口に放り込んで、そのままビールで流し込む。 「ねぇ聡ちゃん、そういうのやめた方がいいよ」 小さなダイニングのテーブルで大きな白いマグカップで両手のひらを暖めるように抱えて夕香が呟いた。 「だって、さっきモカ飲んだばっかりだから、こうでもしなきゃ眠れやしないんだもん」 イラストレーターの仕事をしている聡子は、一昨日から徹夜で仕事にかかりきりだった。つい三時間ほど前「あとちょっとなのに眠くて仕事にならない」そう言いながら眠気覚ましのドリンク剤を二本空けたばかりだ。 「疲れてて眠いはずなのに、妙に頭が冴えちゃって。モカがまだ効いてるのかなぁ」 「だからって、トランキライザーとビール一緒に飲むの、絶対よくないよ」 美大で知り合った二人が親しくなって、経済的にも助かるからと、2DKのアパートをシェアして住むようになって、6年が過ぎた。 その6年間の間にも、特に聡子がプロとして仕事をするようになってから、何度となく交わされてきた、このやりとり。 高校の時から同人誌を作ったり投稿を繰り返していた聡子には、絵を描くための目覚ましアイテムと描き終えて眠るためのトランキライザーは既に必要不可欠な日常品だったが、プロになって、そのプレッシャーのため、安定剤だけでは仕事後の興奮から開放されことができなくなってしまい、軽いアルコールを併用するようになっていた。 夕香は同居人である若い女性のこの習慣が、彼女の体を蝕んでゆくようで、良い感情を持つことができない。 「クリエイティブな仕事の人って、皆こんなものなのかしら」 もちろん、プロの絵描きの殆どがそんな習慣を持ち合わせていないだろうことは解っているのだが、聡子のこの習慣を見る度 「私は普通に就職してよかったわ。。。」 そう思わざるをえなかった。 最初の頃は遠慮がちに部屋で隠れるように薬を飲んでいた聡子だが、最近では感覚も麻痺して、夕香の偏見の目で見られるのにもすっかり慣れて、共同場所であるダイニングのあちこちに、この白と緑のカプセルの入った白い小さな箱が目につくようになってきた。 薬を飲んで、その箱を置いた場所を忘れて、無くなったものと、また新しい箱を買ってくる。その繰り返しで、それぞれの箱には皆平等に数錠ずつ服用された跡がある。 「とにかく、私は会社行くから、ゆっくり休むんだよ」 心配する夕香の忠告に「はいはい」と生返事をしながら残ったビールを飲み干す聡子に、呆れた口調で言い捨てて席を立つ。 「じゃ、いつも通りに郵便局に出しておくから」 原稿の入った茶封筒を小脇にかかえ、ドアを出る後姿に 「いつもごめんね。ありがとう。行ってらっしゃーい」 悪びれのない無邪気な声をかけて、ドアが閉まり、聡子の足跡が階段の向こうに消えるのを聞きながら、小さく欠伸をして部屋のベッドにもぐりこむと、そのまま泥のような眠りについた。 今までだったら、その繰り返し。 しかし今回は少し事情が変わってきた。 夕方帰ってきて晩御飯を作る背中が、まだベッドから起き上がれない聡子に話し掛ける。 「私ね、ここを出て部屋を借りようと思うの」 布団の中でもぞもぞと動く気配で、目だけは覚めているのはわかっていた。 急な話ではあったけど、聡子には何となくそんな日の予測がついていた。 「会社の高山さん、だっけ?」 ドアの向こうから声だけが返ってくる。 「ん。。。プロポーズされた。。。」 「そっかー、じゃ、私も部屋探さないとな。。。一人じゃここの家賃はキツイしなぁ」 「部屋借りる分の貯金、ある?」 「ギリギリ、かな。まぁ何とかなるよ」 曖昧な返事。 これに返されたのは、言葉ではなかった。 キッチンの片隅で、激しく何かが割れた。 「もう!何で聡ちゃんってばいつもそうなのかなぁ!」 夕香の激しい怒鳴り声を初めて聞いた。 総子は慌ててベッドから転げ落ちてパジャマの上にカーディガンを羽織る。 「な。。。何?何事?」 「総ちゃんってば、いつもいつも、私がどれだけ心配してるかなんて解ってない!」 「そんなことないから、落ち着いて。。。」 「薬だってビールだって朝から平気で一緒に飲むし晩御飯だってちゃんと栄養考えて作ってるのにろくに食べないし、仕事してる時意外はビール飲んでばっかりで!」 一気に捲くし立てる夕香の勢いに圧倒されてしまう。 「ちゃんと、自分で考えてるから。。。」 「考えてない!私がこんなに心配してるのに! 」 「だからって、何で。。。私の体のことなんて、夕香には関係ないじゃない。高山さんの事、考えてあげればいいじゃない」 なだめようとするけれど、適切な言葉が浮かばない。これでは逆効果だ。 「高山さんなんかどうでもいいの!私が心配してるのは総ちゃんなの!」 興奮してテーブルをバンバン平手で叩きながら叫び続ける。 「何で解らないの!私が心配したいのは総ちゃんだけなのに!」 「ちょっと待ってよ、女友達なんかより、これから結婚しようって人の方が大事じゃないか」 夕香の小さく震える背中を抱きしめる。 「結婚なんてしない。。。総ちゃんとずっといる。。。ここでずっと総ちゃんの事心配してごはん作って。。。」 ――参ったな。。。マリッジブルーだ―― 総子はもう一つの手で自分の額を押える。 頭がくらくらしてくる。動悸が激しくなる。 ――薬、飲みたいな―― しかしここでトランキライザーに手を伸ばすのは夕香をさらに刺激するだろう。 フイをつかれた。 一瞬、ふっと静まったかと思うと、柔らかな唇が重なってきた。 「私、聡ちゃんだけ、なのに。。。」 気まずい空気を部屋に残したまま、時間だけが過ぎる。 もう何日顔を会わせてないだろう。 ドア越しに用件だけの会話。 早く、部屋を出て、さっさと結婚でも何でもしてほしい。 聡子はあの日の夕香との一瞬の触れ合いを、結婚への不安から来る衝動だと判断し、この悪戯に過ごし難い日々の終わりを願った。 寒い寒い夕方。すっかり朝夕逆転生活の聡子が目を覚まし、夕香の気配が部屋のどこにもないのを確認してから、キッチンに出る。 テーブルの上に一枚の封筒。 「手紙?」 切手もなければ住所もない。 ただ、一言「聡ちゃんへ」 そういえば、夕香の文字を見たのはどれくらいぶりだろう。懐かしい丸い文字。胸がきゅんと音を立てる。 中から一枚の便箋。 「外、見てごらん」一行だけ。 外? テーブル脇の窓、レースのカーテンを開けると 「あ。。。雪?」 白く柔らかい雪が窓のサンに薄くつもり、その向こうは白い風景。 この雪が溶ける頃には夕香はもうこの部屋にいないだろう。急に込み上げてくる妙な気持ち。 「せめて、それまでは仲良く暮らさないとね」 湧き上がる妙な気持ちを無理やり胸の底に沈めて、部屋に戻りレポート用紙を一枚、丁寧に切り取る。 「今夜はシチューが食べたいな」 封筒の持ち合わせがないので、半分に折り畳んだ裏側に「夕香へ」と記してテーブルに置く。 こんな風にたった一行で気持ちが落ち着くものなら、手紙もたまには悪くない。 「明日、レターセットでも買ってこよう」 いずれ別々の生活をするだろう彼女のために。時々は文字で気持ちを伝え合おう。 そろそろ夕香の帰る時間。 何となく気恥ずかしくて、部屋に篭る。 ドアの開く音。靴を脱ぐ音。テーブルに鞄を置く音。 きっと今ごろ、手紙を見ている。 くすっと夕香の笑う声が聞こえる。 「ねぇ、聡ちゃん、私ね、自分の気持ちに正直になること、決めた」 一瞬、言っている意味が解らなかった。 「高山さんとは、結婚しない。今日お断りしてきちゃった」 「。。。何で!?」 ドアを思い切り開けると、頬を薄く紅色に染めた夕香が立っている。 「聡ちゃんが嫌なら。。。言ってね。私、部屋を出るから」 上目遣いに聡子を見つめてとまどいがちに話す夕香に、どういう態度に出ればいいのか。 。。。負けたなぁ。。。 「とりあえず、シチュー作るね」 そう言ってキッチンに戻る夕香の後姿に、 「夕香には一生勝てない気がする」 呟いてくくっと笑いながらテーブルにつく。 「夕香が私のトランキライザーになってくれるなら、ずっとこのままここで一緒にいよう」 久しぶりの二人の食卓が、戻ってきた。 − Top− −Novel Top− 2003.8.21 |