八百比丘尼。その娘は父親の持ち帰った肉を何も知らずに食べてしまい、
年を重ねることが出来なくなり、やむえず里を出て、尼僧の服に身を包み、
北陸の各地を転々としながら、それら地域の為に身を尽くしながら生き、
最後には、横穴に篭り自らの命を絶った。




八百比丘尼奇談





「そんな話やったんか」
「うん、オレも怖い話やとばっかり思っとった」

小さな借家の、川に沿った涼しい縁側で、短い伝説を聞き終えて
子供達は、ほうっと溜息をついた。

語り終えて、一志は、丸い眼鏡に反射する川からの光に
眩しそうに目をしばかせた。
「まあ、八百年も生きたということだけ、強調されては
 妖怪化け物の類の話と思ってしまっても仕方ありませんからね」
「偉い人やったんやなぁ八百比丘尼」
「オレは何や、悲しい気ぃがしたわ」
「悲しいて、猛が悲しいて!」
おかっぱの黒い髪を揺らしながら少女が声を上げて笑う。



小学校に入りたての5人ほどの子供たちは、日曜の度に、
近所で塾の講師をしている一志の家に集まっては物語をねだる。
小説家を志すこの青年は物知りで、そこらここらの大人たちが
まるで知らない伝説や逸話を、面白く話してくれる。



「一志先生の話より羊羹のが目当ての猛が悲しいて、何やおかしいわ」
おかっぱの少女、さくらが、気の強い瞳を輝かせて笑う。
しかし、喧騒が大きくなっても、一志はそれを止めようとはせずに
眼鏡の奥で目を細めてにこにこといつも見ている。
「まぁたさくらが猛に喧嘩売りよるわ」
いつもの事、といった感じで他の子供達も相手にはしない。



「私も、八百比丘尼のお話がそんなお話だとは知らなかったわ」
口論が鷲掴みの喧嘩になろうかというタイミングに合わせたように
盆に麦茶の入ったガラスコップを人数分乗せて女性が姿を見せた。
「ほら、冷たいの入れたから、皆一息つきなさい」
猛とさくらも、その喧騒をにやにやと眺めていた子供達も
わっ、と盆に群がる。

「今年の夏はまた特に暑うてかなわん、てばあちゃんが言いよったわ」
線の細そうな色の白い少年が額の汗を拭いながら言った。
「あら、こちらはまだ涼しい方よ。
 東京なんてこんなもんじゃなかったもの。ねぇ?一志さん」
そう言いながらも女性は片方の手のひらで大きなお腹をさすりながら、
もう片方の手で空になった盆で汗ばんだ首すじを扇ぐ。
「東京はそんなに暑いんか?」
「そうだね、ここ数年で随分車も人も増えたからね。。。」
子供の無邪気な問に、一志は解りやすい言葉を捜しながら
ゆっくり答えようとする。
「暑くても私は東京の方がいいなぁ。面白いこと、ようけあるんやろ」
さくらが一志とその妻、静の顔を覗き込む。
「そりゃ、面白い事はたくさんあるだろうけどね」
"答え"を途中でさえぎられたにも関わらず、にこやかに話の筋を変える。
「都会は何かとお金もいるし、空気もどんどん淀んで来てるし、
 ここの方が随分と住みやすいよ」
一志のゆっくりとした一言一言を受けて静も口を挟む。
「そうよ、こちらののんびりとした空気の方が、子供だって育てやすいもの」
子供達は一様に「ふぅーん」といった感じで首をかしげた。
「先生、変なの。オレの兄ちゃんも他の大人も、
 皆東京や大阪はエエ言うのになぁ。都会の方が稼げる言うのになぁ」





高度成長の波の中、世の中はゆっくりと都心を中心に動きはじめていた。
その流れに逆らって、見知らぬ田舎にやってきた
素性も解らない身重の夫婦を最初、村中は不信がり、
近寄る事も話し掛けることもなくただ遠巻きに眺めていた。

遠縁のさらに遠縁だという、誰もよく知らないツテで借りた借家に住み着いた
その余所者に、最初に近づいたのは、怖いモノ知らずな子供達だった。

子供達は少しずつ親しくなると、無邪気に、未知の都会の話をねだり
やがて部屋の中を埋め尽くす本の山に興味を示すが、
小さな難しい言葉と読めない漢字の為に挫折する。
その、読まれずに放り出された本の中身をゆっくりと一志青年は語って聞かせ
語る内容も本に書かれている領域から離れ、
誰もが知る童話や伝説の裏話や
他の土地で語られる違う解釈の話まで広がってゆく。
さらに少し高学年の子供達の勉強の解らない所を見てやるようになると、
「これは。。。」と思い始めた大人たちが、
僅かの礼金を包んで子供の勉強を見てやってくれないかと
頭を下げてやってきた。

時代は既に中学を卒業し、家業を手伝うというものではなくなり、
高校を卒業し、より良い仕事につき、家に金を入れるなり、
自分で所帯を持つなりする、核家族の世代が始まっていた。
こんな日本の隅の、漁業と農業でひっそりと生きている貧しい片田舎でも、
「あわよくば自分の子供を大学まで行かせたい」
そんな願望を持つ大人は増えていた。

そうした村人の「教育への目覚め」のおかげで、
田舎の片隅に住み着いて一年と経たないうちに
一志青年夫婦は、村で唯一の塾の先生として大人にも子供にも慕われながら
生活を成り立たせていくことができた。





しばらくして、友達が「都会の方がええ」と騒ぎ立てるのを
ただ聞いていただけの物静かな少年、悟が口を開いた。
「でも。。。一志先生達が村に来てくれたおかげで、
今まで高校行くの諦めとった兄ちゃん達が去年高校行けたけんなぁ」
「そりゃ、まぁ、そうやなぁ。。。」
「オレももうちょっとしたら一志先生に勉強教わりに来るけんね」
悟ははにかむように小さく笑った。
「悟はもう十分勉強できるけんいいやろ、
教えてもらわないけんのは猛の方だわ」
さくらがまた、猛をからかう。



しかし今度は口喧嘩にならなかった。
悟が熱心な好奇心から、八百比丘尼の話を蒸し返したのだ。
「なぁ、一志先生、八百比丘尼は本当に八百年も生きれたんやろうか」
「さぁね、でも北陸の方にはあちこちに碑石があるらしいよ」
「先生、その碑石、見たことあるんか?」
「いや。。。僕はずっと東京で勉強ばっかりしていたからね」
一志は子供達よりずっと華奢で白い腕を隠しながら照れて笑った。
「オレも人魚の肉食べたら八百年も生きられるんかなぁ」
「悟はそんなに長く生きていたいの?」
「うん、いっぱい勉強していっぱい本読んで外国にも行ってみたいし。。。
 やりたいこと、ようけあるんよ。八百年では足りんかもしれん」
「八百年でも足りないか、それはすごいなぁ。。。でも。。。」
一志はそれまでの笑顔をふっと曇らせた。
「長く生きれたから良い事とは限らないよ。
 八百比丘尼も、年月を重ねても変わらない自分の容姿に
 随分苦悩したはずだからね」
「そうかなぁ。。。うちのじいちゃんはもっと長生きできますようにて
 毎年初詣でお祈りしよるけんどなぁ」
さくらが表情の変わった一志の顔をこわごわと覗き込み呟いた。
それを見て慌てて柔らかい笑顔を作り直す。
「さぁ、今日はお終い。陽が長くなったとはいえ、
 あんまり遅くなってはだめだよ。
 そろそろ皆晩御飯のできる頃じゃないのかな」

「先生、また来週来るけん、今度は外国の話してや」
先ほど悟が口にした「外国」という言葉に触発されて猛が言った。
「あんた、外国て何だかわかってんの?」
さくらがくすくすっと笑いながら縁側を飛び降り、川に沿って走り出す。
それを追うように猛も駆け出す。
二人は川の下の方、姿が見えなくなる直前になって
一志夫妻に向かって大きく手を振った。
「じゃあね、先生。また遊びに来るけんね」
他の子供達もそれぞれの家の方に向かって散って行った。
「さて、うちも晩御飯にしましょうかね」
静が空になったコップを片付けながら促す。
「ああ、僕はもう少しここで考え事をするから、準備ができたら呼んでくれ」
作家志望の夫の、川の流れや木の葉の揺れるのを眺めながら
ぼんやりと深い思考の底に落ちてゆく癖を、静は心得たもので、
そのまま考え事の邪魔にならないよう、返事を省略して奥へ姿を消した。





八百比丘尼。。。真実はどうだか、怪しい話だ。
その肉を食ったのが女かどうかすら怪しい話だ。





それはいつの事だったろうか。
その時代も、背景も、既に記憶が怪しい。
ただ、一つだけはっきりと覚えているのは、
無性に腹が減っていた。
食べる物は何もない。。。
その村にも、今まで歩き渡ってきた、どこにも。
国中が飢えていた。一部の特権階級、貴族などと呼ばれる存在以外は。
戦も飢饉も火事も盗賊も日常に横行するこの時代に、親兄弟を失って
放浪する子供は珍しくもなく、彼もまたその一人だった。
栄養の行き届かない、骨の浮き出るようなガリガリの細い手足の少年は、
どうにか辿り着いた朽ちた神社で一人雨風をしのいでいた。
雨が止めば庭の墓石の窪みに溜まった雨水をすすり、
無秩序に育った木の根を掘り、かじる生活が、もう何日も何十日も続いていた。
それでも少年は生きていた。
寝泊りしている荒れた社のそこらここらにうごめいていそうな影も、
恐ろしいを過ぎて、長く親しんだ友達のようでさえあった。

村では、いつの間にか神社に住み着いた浮浪児を
自分たちの食いぶちさえ怪しいありさまで、他人のことにかまう余裕などなく
「そのうち飢えて死ぬだろう」
と見て見ぬふりをするしかなかった。



口減らし、という習慣がこの時代暗黙の了解となっていた。

先のないであろう、体の弱った老人が、
足を折られ、山の奥に置き去りにされる土地の噂も広まりつつあった。

産まれても育つアテのない赤ん坊、
乳を出すための食べ物も口にできるかどうかという家では
産声をあげる間も無く、濡れ手ぬぐいで顔を包まれ、葬られた。




長い長い雨の季節が少しずつ少年から体力を奪ってゆく。
体の内側にじめった苔の種子が根付き、
喉から送り込まれる湿った空気を養分に繁殖を始めるような、
じわじわと侵食されてゆく感触に、腕も足も自由は奪われ、
既に呼吸も己の為ではなく、奴らを育む為のものになりつつあった。

外から響く不快な雨音も、薄く開いた目に入る暗い天井を眺めながら聞くと
自分を土壌にして育とうとする新たな生命の息吹に聞こえ、
ぜぃぜぃと嫌な音を立てていた肺の音さえ、眠りへの期待に回る滑車音となる。

もう、何も嫌なものは見なくていい。
野に山にさらされたままの屍の山も。
飢えて細い小枝より細い自分の指も。

まだこの神社に辿り着いたばかりの、
建物の中を食べられる物捜して歩く元気のあった頃、
奥の部屋で見つけた壁画。
入り口のある壁を覗いた三つの壁に、一枚ずつ、三枚の絵。
両脇に、地獄。
真中に、極楽。
管理すべき人の手が離れてからの年月を思わせる汚れてすすけた絵。
薄暗い中で見るその恐ろしさをさらに増幅させる汚れ方。
骨と皮だけになって赤くただれた屍の足をつまみ、
今まさにゆだった釜に放り込まんとする赤く血走った鬼の目。
葉の一枚一枚が鋭い刃となって、上る輩の皮も肉も殺ぎ落とす巨木、
しかし愛欲に溺れたがゆえ、その巨木の先に待つ異性の幻を求めて
骨まで血に染めながら上り下りすることをやめない屍達。
足の裏を殺ぎ落とされながら長い長い先の見えない針の道を
後ろから追い立てる鬼に戻ることを許されず、ただ歩きつづける屍達。

二枚の絵には、死してなお苦しみ終わらず、現世の罪をあがなえと、
現世での罪はかくのごとき重しと、形相歪む屍でもって諭す。



しかし、真中の極楽絵図は、その両脇の地獄絵図よりも恐ろしかった。



酒をすすり、椀から溢れる馳走をお互いに食べさせあう
穏やかな表情の白い着物の人々。
長い羽衣をひらひらと舞わせ踊る人々。
涼やかな音色であろう楽器を響かせ、歌う人々。
その中央に鎮座する御仏の姿は、
この薄汚れた姿でなければ、薄暗い部屋で見るものでなければ、
どれほど美しく壮観なものであったか。

しかし少年の前に鎮座する御仏は、薄暗い闇の中で白い頬に蜘蛛を這わせ
放置され置かれたことに恨み辛み訴えるような切れ長の三白眼。
既にこの世に救いはないのだと、教え諭す厚ぼったい唇。
無知で無力な少年に、無言の重圧がのしかかる。



今まさに、その御仏は奥の部屋より出でて、
九字を結んだその指先で、少年の首根っこを猫のように抓み、
両脇に待ち受ける鬼の群れに放り込まんとし、
その全身が抓まれた首の所でクの字に曲がり、
ふわふわと宙に舞い始めている。



終わるのだ。
自分は、今、ようやっと、終わるのだ。
地獄でも、どこでもよかろう。
そんな不確かな行き先への安否よりも、
今はただ、この、飢えからの開放。
現実の屍の山からの、開放。
細く、長く、最後の息を吐き、迎えの足音を、耳を澄ませ待つ。



その耳に、じゃり、じゃり、という不快な音が飛び込んできた。
それは住み着いてからこっち、一度も聞いたことのない、
人の気配の音。

強く叩く雨音に混じって、人の気配。

――何だ?この雨の中。。。。。

穏やかな眠りへの誘いを邪魔され、些か憤慨気味に
ゆっくりと、爪の先ほど開いた引き戸へ眼孔だけを向ける。
薄暗い雨の中、境内を挟んで向こう側の林に、
背を丸めて地を這う男の姿を確認すると、その様子を凝視する。
――怪しい奴だな。。。
自分も村にとっては怪しい存在であるなど、思いもしない。

男は地に鼻をなすりつけるように穴を掘り、そこに、
余った布切れのような粗末な布で包んだ何かを放り込み、また、埋めなおした。



興味はあったものの、それに向かって立ち上がる力はまるで無く、
ようやく這うようにしてその場所に辿り着いたのは、
夕暮れもとうに過ぎ、雨も止み、
雲から月がわずかに灯りを見せ始めた頃だった。

小さな小さな月明かりの下、その石は妙に新しく、光って見えた。

石をどかし、小枝のような指で土を掘ると、
すぐに、泥まみれの柔らかいボロ布が現れた。

それは、本能だったのかも、しれない。

喉がごくんとうなり、胸の下の方から甘酸っぱい液が
胃をきゅうっと締め付けるようにこみ上げてくる。

震えながら丁寧にボロをはぐってゆく。

やわらかい、やわらかい、小さな、小さな、肉の塊。
まだほのかに温もりの残る。
両手のひらに抱えて顔を近づけてみる。
戦跡のむせかえるようなものとは違う種類の血の臭いに、
ごくん、と喉がなった。

と、その瞬間、手のひらの中で硬まっていた塊が、びくん、と動き、
ひゅう、と喉に空気が入る音に続いて、
「ふにゃぁ。。。」死にかけた仔猫のような頼りない声がもれた。
一瞬、驚いて落としそうになったのを抱え直し、
小さな泣き声に合わせてひくひくと震えるように動くその細い喉に



かじりついた。



それが人間であるとか、生きているとか、そんな事はどうでもいい。
目の前にあるのは、新鮮な、肉の塊。
口も顔も血で赤く染めて、無心で、がつがつと噛みちぎり飲み込んでゆく。
頬も腕も腹も足も。柔らかい部分は瞬く間に食い尽くした。
キレイに赤い小さな肝を月明かりに照らし、ぬらぬらと光るのを見て、
「美しい」
そう小さく呟いて、しばらくうっとりと眺めた後、口に放り込んだ。
ぬるりと喉を通り過ぎる快感。
最後に散らばった小さな骨を一本一本丁寧に舐めてゆく。
こびりついたどんな小さな肉片も残すまじと
時間をかけてゆっくりと、舐めてゆく。
白い骨が光るほど舐め尽くす頃、ようやく朝陽が射してきた。
食い荒らした骨をもう一度ボロに包み戻し、穴に放り込んで埋め直す。
腰を上げて神社に戻り、奥の壁画の部屋を開く。
真中で少年を凝視する仏の白い顔にゆらゆらと近づき
泥のついた手をなすりつけた。
「くっくっ。。。」
無残に汚れた仏の顔を侮蔑するような笑いが喉からこみ上げてくる。
そしてそのまま背を向けて、境内に下りる段を駆け下りた。

軽い。体が軽い。

自分の身体に「走る」という能力があることなど、
今までさっぱり忘れてしまっていた。
今ならどこまでもどこまでも、駆けて行けそうな気分だ。
駆けて、駆けて、駆けて。。。
時折水は飲んだが、何も食わずに走り続けても、不思議と腹が減らなかった。
食べ物を摂取するという生理を、失ってしまったかのように走り続けた。
途中いくつかの行き倒れを見かけ、食えるものかと試してみたが、
死肉なら何でも良いというわけでもないようで、
大人であれ子供であれ、新鮮であれ、どうにも臭さが違って食えなかった。
――育ってしまってはだめなのか?
――まぁいい。とりわけ腹が減ってるわけでなし。
腹が減らない、その事はさして不思議にも思えず、
まるで産まれ落ちた時からの体質のような感じで、
むしろこの食料不足の世の中では、便利な体になったものだと思えた。

幾つかの小さな村を通り過ぎ、やがて大きな都に辿り着く。
そこにも、他の村と変わりなく、疫病と戦と飢えは溢れていた。
どこに行くとのあてもなく、ぼんやりと橋のたもとで座り込み、
何を見るともなく、人の往来を眺めている。
雨が降れば、同じように屋根の下に眠る場所を持たない輩が
どこからともなく集まってきて橋の下に群れて身を埋める。
皆一様に生気なく、土気色の顔で、いつ息絶えても不思議なさそうだ。
ぼんやりと、ただぼんやりと、日々が過ぎる。

そんなある日の事。
橋の向こう側から、上品な着物を着た暮らし振りの良さそうな女が
共を連れ歩いて来た。
別に珍しいことではない。貧しい者がいれば富める者もいる。
普段なら、とりたて目を引く光景でもなかった。

ただ、女の腹がでかいのを別にして。

そのはちきれんばかりの帯の下、着物の下。
産声を上げる日は遠くはないはず。
その腹が目の前で揺れ、通り過ぎるのを目で追っていると、喉がなった。
急に腹の底から避けようのない生理的な欲求がこみ上げてきた。



食い物だ。



フラフラと立ち上がると、もう他の物は何も目に入らず、
ただ小豆色の上品な帯の太鼓を追ってついて歩いた。
女と共の者が高い木の塀に囲まれた立派な屋敷の門をくぐり
消えてゆくのを確認して、ぐるりと塀を一周して小さな勝手口を見つけ
こっそりと忍び込んだ。
中に入ると屋敷自体は大きなものではなく、
やたらと広い庭に狭しと植えられた木々の片隅に身を隠す場所を探し
膝を抱え小さく身を丸め、息をひそめ、時を待つ。

陽が沈み、昇り、また沈み、また昇る。。。

喉の渇きをこらえ、目を閉じ、耳だけに全ての神経を注ぐ。

そして時は来た。
それは夕暮れ。急に屋敷の中が慌しくなり、一度塀の外へ出た使いの者が
立派な刀を脇に挿した主らしき男と戻ってきた。

また、陽が沈んで行った。
静かに静かに、庭の中にまた夜がやってくる。

長い長い時間の後、その闇を切り裂いて、屋敷から歓声が上がった。
歓声の中に、埋もれて消え入りそうな小さな小さなあの泣き声を、
聞き逃さなかった。
途端に、腹が鳴った。最後にその音を聞いたのはいつだったか。
昔は悲惨でしかなかったその音が、今は懐かしく、期待に満ちて聞こえた。
もう少し、もう少し。。。
屋敷の中の全てが寝静まるまで、あとちょっとの辛抱だ。

跡取りの誕生に浮き足立った屋敷は、とても簡単に忍び込めた。
台所に近い部屋では酒に酔った主と屋敷の者がだらしなく眠っていた。
奥のこぎれいでさっぱりとした小さな部屋で、女が眠っていた。
その隣の小さな布団で、目的のモノが眠っていた。
足音を忍ばせ息も立てぬよう、近づき、
あらかじめ濡らしておいた着物の裾で小さな顔を覆うと、
小さな指先がビクビクと動き、抗ったが、すぐに垂れ、動かなくなった。
行燈の揺れる灯りの中、びちゃびちゃと食う音だけが響く。
すぐ隣で寝息を立てている女の横顔をじっと見つめながら。
顎の下に痣のようなものがある。親の痣や黒子は子に移るというから、
この赤ん坊にもあったのだろうか?もはや確認のしようもない。
そんな事を考えながらも口はひたすら動き続ける。

その異様な状況に感付いたのか、突然女がこちらを振り向き目を開けた。
その目に顔を血まみれにしながら小さな腕を咥える少年が映った。
夜の静けさを切り裂いて甲高い悲鳴が響いた。
何事か、と、寝ていた屋敷の人間が飛び起き、
ばたばたと走ってくる足音が聞こえる。

「ちっ」

少年は食い穴を開けた胸から肝を取り出し、
腕を体から噛みちぎり咥えたまま、庭に飛び出し、勝手口から走り逃げた。
そのまま、走り、走り、走り、最初居ついた橋を超え、都の外へ姿を消した。
街道を脇道にそれ、叢にうずくまり身を隠すと、
残りの腕と、肝をゆっくりと食い終わる。
「ふぅ。。。」
着物を脱ぎ顔を拭き、そのまま捨てる。
また、一度都へ戻り、崩れ落ちそうな長屋の軒先に干してある着物を盗ると
さくっと羽織り、今度こそ姿を消すつもりで街道に戻り、都を後にした。



食料はいつもさほどの苦もなくありつくことができた。
望まれていようと、望まれてなかろうと、いつも必ずどこかで産声が上がる。
運悪くなかなか食事にありつけなくとも、飢えるような事もないので
辛抱強く待っていれば、それでいい。
産み落としてすぐの家はなぜか殆どが無防備になる。
盗りに入るのもたやすい。
ただ、その場では食うことはせず、必ず外に持ち出してから食うようにした。
食った村の次の村で追ってがかかったり、噂が広まって警戒されたり、
そんな事があってからは、食事をした村の次は近隣の村を通り過ぎ、
必ず七つ八つ先の村まで足を伸ばした。





――しまったな。。。。。
街道から人里に入り、見覚えのある橋にさしかかって、舌打ちをした。
この都ではあの女に確実に顔を見られている。
どこかで出くわしでもしたら厄介だ。
もと来た道を引き返し、遠回りをしてよそへ行くか。。。
そう思いながらきびすを返し、街道に入ろうとした時だった。
見知らぬ老婆にいきなり腕を掴まれた。
年よりらしからぬその腕の強さに、しばしたじろぐ。
老婆は少年の顔をじっと見つめ、叫んだ。

「わしのやや子を食べた子供や!」

――何だ?この婆さん、覚えがないぞ?
オレがこの婆さんの子を食っただと?
そもそも、こんな婆さんに子なぞ産めるはずがないだろう。
気でも狂れたか?

「わしのやや子、産まれたばかりのその日のうちに。。。
 忘れはせんぞ、この顔や!姿形あの晩見たまんまや、
 赤子食いの鬼め、赤子食ろうて年も取らぬか、この妖怪め!」

恐ろしい形相で噛み付く勢いで顔を近づける。

――何?年を?何だって?
とまどいながら老婆の顔をじっと見る。顎の下に見覚えのある痣。
「おまえ、あの晩の女か!」
老婆の勢いにつられてつい、赤子食いが自分であることを自白してしまった。
「語るに落ちたわ、この鬼め!いざやや子の敵を打たん!」
老婆は懐から短刀を出して少年につきつけた。
しかし、所詮は年寄りの力。
掴んだ腕を少年にあっさりとふりほどかれ、突き飛ばされてしまう。
橋のたもとでしりもちをつき倒れこんだ老婆をとどめに蹴りとばし、
後ろも見ずに一目散で街道を駆け抜ける。
峠に入り、人の姿がなくなるまで走り続けた。

――あのババア、あの時の。。。?

それにしても妙な話だ。
時折川で顔を洗う時見る自分の姿はあの頃とまるで変わらないのに、
なぜあの女はあんなに年を?
そういえば、気になる事を言っていたな。

「赤子食ろうて年も取らぬか」

年?年が何だって?オレが年をとっていないと?
まるでわけがわからない。





長い長い年月が過ぎて去って行った。



正確には、少年はまるで成長していないわけではなかった。
「日の国」と呼ばれたその国が「日本」と名乗り、
同じ肌の同じ言葉の民族同士で争っていた戦が、
戦争と名前を変え、その相手も違う言葉を操る、遠い遠い異国の民族。
何度目の戦争を目の当たりにしただろう。
小枝のように細い手足は殆ど変わらないが、その風貌は既に少年ではなく、
青年と呼ぶにふさわしいまで成長していた。
あくまでもゆっくりとゆっくりとした成長ではあったが。
戸籍というものを持たないおかげで、
収集され戦争に駆り出されることはなかったが、
降ってくる爆弾の間を縫って逃げつづけるのは、愉快なことではない。
その戦争の後に来る不況も、面白くない。
そう、ただ食っては逃げ、食っては逃げを繰り返しつづけていた少年も
生きている中に愉快なこと、面白いことを堪能するようになっていた。
知恵も、知識も、長く生きた分、豊富で、それらを駆使して食事を得る
狡猾さも身に付けてきた。

ようやく、長く悲惨な戦争が、日本の負けという形で終わり、
不況の波が過ぎて、人々の生活に外国のスタイルが定着し、
高度成長なるものが訪れる頃、青年は名を一志と名乗り、
街の一角の飲み屋でバーテンダーなどという洒落た仕事にありついていた。
過去の経験から、飲み屋の仕事は、一番手軽に食事にありつける。
決して、整った、女に好かれる容姿ではなかったが、
その細い鋭い顔つきを丸い眼鏡で愛嬌良くして、
小説家を志している、などとインテリな部分もちらちらと見せながら
穏やかそうな笑顔で接し続けることで、女が寄って来る。
一度は、そうした女に、自分で孕ませれば手っ取り早いではないかと
試してみたが、何年付き合ってみても孕む様子がまるでない。
どうやら自分の体にはそのための機能がないらしい。
まぁそれもしょうがないこと。
今まで散々本来の自然な人間の在り方に逆らって生きてきたのだ。
それではどうしようか。。。せっかく女が寄ってきてくれるのだから
これを利用しない手はないだろう。
自分に近づく女は殆どが商売女だ。
丁寧に話を聞き、優しく接してやって、安心感を与えて、
他ではできない相談をされる、信頼される関係を築けばいい。
そう、例えば、産んではならない男の赤ん坊を孕んだ、などと。
それでも孕めば産みたいのが女というものらしい。
自分で良ければ、子供も一緒にこの先面倒を見ようではないか、
などと言いくるめて人知れず遠い田舎にでも連れて行けばよい。
赤子が死んで産まれることなどよくある話で、
産まれ落ちきる直前に、ようやく顔を出したあたりできゅっと首を絞めるだけ。
そして一緒に悲しむフリでもして、後でゆっくり食えばよい。

所詮惚れた腫れたで一緒になったわけでないので、
赤子がだめであったとなると、殆どの女はまた自分から離れて街に戻る。
そして自分は別の都会へ。。。
大阪で女と知り合ったなら、次は博多へ。その次は札幌へ、という具合に。
どうせ数年に一回食事ができればそれで自分は生きてゆけるのだ。
また同じ街にふらりと戻ることがあっても、
その頃には前の女はすっかりいい年で、
ともすれば既にこの世の人間ではなかったり。





外はすっかり暗くなってきた。
静が奥からためらいがちに声をかける。
「そろそろお食事にしませんこと?」
「あぁ、悪かったね。随分待たせてしまったようだね」
ふ、と我に返って家の中に入り縁側の網戸を閉める。
「あぁ、今日も美味そうな晩御飯だ」
「あまり豪華なものではありませんけど」
「いいや、十分、感謝してるよ。僕は本当にいい奥さんを持って幸せだ」
「感謝してるのは私の方ですわ。あんなお仕事をしていた
 誰の子ともわからない子を妊娠してしまった私に、
 こんなに良くしてくださるなんて。。。」
「そんな事はどうでもよいよ。
 僕の働いていたあの店に静が常連で来てくれるようになったあの頃から、
 貴方は僕にとってとても気になる人だったのだから。。。」



優しい夫の言葉に照れながら、嬉しそうにご飯をよそう。



「さぁ、そんなことより食事だ。
 いっぱい食べて、まるまる太った元気な赤ん坊を、早く見せておくれ」
眼鏡の奥で一瞬冷たく瞳が光ったが、
幸せでいっぱいの静は、気付くことはなかった。



−−−−
この短編に少々手直しを入れて新風舎様の
第16回フーコー短編小説コンテストに応募しましたら
佳作を頂きました。
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Novel Top
2003.7.28