水棲の友情





 いつもの朝。開け放しにした車の窓から反対の窓へと吹き抜ける心もち涼しい梅雨前の風。寂びれた県道の両側に広がる田んぼは澄んだ山水を穏やかに波立たせ苗の植えられるのを静かに待っている。
 総二は細い県道を逸れ、田んぼと田んぼの間に敷かれた農道へするりとハンドルを切り、慣れた調子でコンクリの橋を渡る。
 欄干の無い特徴的なその橋は沈下橋という名前で有名だが、今総二が渡ったその橋は誰もがテレビや旅のポスターで知る、悠々と流れる雄大な川にかけられたインパクトのあるそれとは違い、小さな川を跨ぎ農道と農道を繋ぎながらひっそりと佇んでいる。
 慣れた調子で橋を渡りきりふとサイドミラーを見て、総二はいつもと変わらないはずの光景に違和感を感じた。
 橋ゲタの袂で窪みができ少しだけ深くなった場所で男の子が一人遊んでいる。ざくざくっと荒く揃えられた短い髪、ヨレた長袖のTシャツは袖を一つ二つ折り、ジーンズの裾をまくしあげ足元の水面を繰り返し蹴りながら水を跳ね上げ遊んでいた。
 小学五、六年生くらいだろうか。そう思ったのは小、中学校と教室を共にした悪友の息子がちょうどその男の子と同じほどの背丈だったからだ。
 そうだなぁ、あいつもあのくらいの……悪友の息子の顔を思い出していると、ハタ、と先ほど感じた違和感の理由に思い当たった。
 ゴールデンウィークは終わったばかり。地元の子供たちはとうに登校している時間。
 連休中にあちこちの庭先や川原を賑わせた「里帰り」の子供たちもとっくに町へと姿を消した。
 一度そのまま通り過ぎ仕事場であるビニールハウスの脇に車を置くと、総二は男の子の遊ぶ沈下橋へ歩いて戻ってきた。しばらくは遠目に観察しながら、その子供が村のどの家の子供でも無い、さらに先日まで遊びに来ていたと思われる里帰りの子供たちの誰かですら無い少年であることを確認して、橋の袂に立ち静かに声をかけた。
「ボク?一人なのか?お母さんとかお父さんは一緒じゃないのか?」
 驚いたように振り向き総二を仰ぎ見たその表情は、一度車がすぐ頭の上の橋を通り過ぎてその直後に人が歩いて橋までやってきたというのに、まるで気付いていなかった様子だった。
 無表情にじっと見つめる眼差しに若干の困惑を覚えながら総二は言葉を続ける。
「いや、俺は怪しい者じゃないから。ここのビニールハウスの者なんだけど……」
 肩越しにすぐ後ろにあるハウスを指差し、すっかり表情の険しくなってしまった少年の自分に対する警戒を和らげようと声も静かに話しかける。
「まだ水冷たいだろ?大丈夫か?」
 表情は変わらないまま、けれどやんわりな口調に小さく頷き「冷たくない」と一言だけ返す。
「そっか。でも一人で川で遊んでるのは危ないよ。お母さんやお父さんは一緒じゃないの?」
 少年はただ黙って見上げながら時折足の甲で水面を叩く。川の中と橋の上で水と一緒に時間が流れていく。
 さて、どうしたものかな……総二は頭を抱えた。
 水嵩の少ない小さな川とはいえ、上流に行けば奥深い山の中を蛇行しながら流れている。上の方の天気次第では急に水嵩が増えるだろう。子供を一人で川の中に放っておくわけにはいかない。しばらく考えて少年の目を見つめる。
「そうだ、良かったら苺食べに来ないか?」
 少年は無言のまま、けれどきょとんとした丸い目になる。
「あ、でも来る時はこの道使っちゃだめだぞ。この川原沿いに歩いてハウスの入り口の前から上がっておいで」
 何で?と言いたげに眉間に皺が寄るのを見て「来れば解るさ」と立ち上がり「待ってるから、ゆっくりおいで」と橋に背を向け歩き出す。時々振り向き小さく手を振りながら。
 少年はその背中を見ながら相変わらず足の甲で水面を叩く。ぱちゃぱちゃと弾けて舞い上がる雫を楽しむように。
 ビニールハウスの横の小さな小屋から総二は時折川をちらちらと見ながら携帯のメールをチェックする。
「今日は仕事になんないな」
 軽く笑いながら、メールの返事を出したりしているうち、気が付くと砂利道の向こう、銀杏の木に隠れるようにひっそりと少年が総二を見ていた。
「ちょっと待ってて」
 二つ折りの携帯をパタと閉じてシャツの胸ポケットにしまいこみ、小屋の中に入っていく。透明のプラスチックケースを手に再び出てくるといつの間にか入り口のすぐ傍まで来ていた少年とぶつかりそうになって笑った。
「あぁびっくりした。ほら、このケースいっぱいくらい摘んでいいよ」
 スーパーでよく惣菜が入って並んでいるような物と同じケースを小さな手に渡しハウスの中へ誘う。
 ムンとする熱いハウスの中に広がる緑と赤の群を前に少年の瞳が大きく広がる。それを見て総二が赤い一粒を摘まみ「ほら」と小さな口元に当ててやると恐る恐る開いた口がぱくりと受け取った。もぐもぐと口周りが動き「ごくん」と喉が音をならす。
「このくらい熟したやつが甘いからね、こういう色のを摘むんだよ」
 広がる畑を指差すと相変わらず黙ったままだがすっかりほころんだ顔で大きく頷き手近の緑の中から真っ赤な苺を手探りし摘まんではケースに入れていく。
 その合間にぽつりぽつりと総二が話しかける。
 お母さん達は一緒じゃないの、今日は学校休んだの、どこから来ているの、といった話には変わらず何の反応も無かったが総二が何気に話し始めた仕事の話には時折摘む指を止めて顔を見上げてみたり声には出さず「ふぅん」という目をしてみせたりしながらまた苺を摘む。
 そしてようやく一番最初に聞いた「冷たくない」という返事から二度目の声を聞くことができた。
「ミツバチ」
「あぁ外に蜂箱があるからね」
 見ればハウスの外の道路沿いに小さな蜂箱が一定の間隔を開けて置かれている。これが「この道を使っちゃだめ」な理由だったのだろう。
 二人の間を縫うように一匹のミツバチがぶぅんと飛んで少し先の小さな白い花に降りた。
「蜂、飼っとるん?」
「あぁ受粉用に……つまりね苺の実を育てるのをミツバチが手伝ってくれるんだ」
「ふぅん」
 白い花の中でせわしく羽を震わせながらぶるぶると動く蜂に小さな指がそっと延びた。が、総二は慌てるでもなくその指を自分の並べた指先でそっと押さえ
「邪魔しちゃだめだよ。それに不用意に触ると刺されるよ」
「うん」と小さく頷いたその頭の中は既に苺を摘むことを忘れ蜂の動きに見入るのでいっぱいになってしまったようだ。
 蜂が右へ向けば頭ごと右を向き左を向けば合わせて左を向く。そうして蜂がすっかり蜜を吸い尽くして飛び立ち再び飛び立ち次の花を探してぶぅんと飛ぶのをじっと目で追いかけている。
「蜂が珍しい?」
「別に」
 そっけない答えだが目はしっかりと開きやがて蜂の動きについていけなくなり、視界から消えてゆくまでずっと釘づけになっていた。
 その小さな頭をにっこりと微笑みながら見守っていた総二の胸ポケットから明るい弾むような曲が鳴り流れた。
「もうこんな時間か」
 携帯を取り出し指先でちょんちょんと操作をし音楽を止めてまたポケットにしまう。その様子をじっと見つめる少年に
「アラームだよ。もう昼だけどボクはどうするの?」と訊ねれば視線を真下の緑に下ろし何やら口篭る。
「苺じゃ昼飯の代わりにはならないしなぁ。家の人に迎えに来てもらうよう連絡してあげようか?」
 胸ポケットの下の硬い機械を指しながら聞くと小さな頭がフルフルと横に揺れた。
 さすがに、何か事情のある子供なのかと思い始めずにいられない。
「しょうがないな、じゃあ良かったら俺の昼飯でも分けようか」
 ハウスを出て小屋に入り雑然としたデスクの上に放り出していた鞄から菓子パンの袋を三個出して一個を少年に「はい」と手渡す。
「こんなもんで悪いけど」
 そう言いながら隅っこの小さな冷蔵庫からお茶のペットボトルを二本出し、一本をまた手渡す。ここじゃ暑いからと外に出てハウスと反対方向に砂利道を行くと小屋の後ろにレンゲの赤い畑が広がっていた。
「うわぁ」小さな感嘆が漏れる。
 赤い花畑の上を小さなミツバチがひっきりなしに羽音を立て飛び回っている。その端の石垣に二人並んで腰を下ろし同時にパンの袋をピリと開けてかぶりついた。のどかな山村の午後。しかしその穏やかな光景と裏腹に総二の内心は焦り始めていた。
 どこの子供なのかも解らない。自分の名前さえ明かしてくれない。両親の有無も定かでない。このままこうしてここに置いていてもいいのだろうか。もしかすると今頃家族が必死になって探しているのかもしれない。
 やっぱり駐在に相談すべきかな……思い巡らしながら無心にパンを頬張る少年の横顔を眺めていると、懐かしさが溢れてくるような妙な気持ちさえ憶えてくる。
 知らない子供。だがこの少年を知らないという事が不思議に思えてくる。
 横顔の向こうに流れる細く穏やかな四万十の支流。観光で有名なそのポイントのような雄大さは無いけれど確かな豊かさを山深い上流から運んでくる。
 そうだ、昔自分が子供だった頃、こうやって同じ年頃の幼馴染達と家から持ち出したパンや握り飯を川の傍で食べたものだ。少年の横顔は眺めれば眺めるほど、その当時の思い出を蘇えさせる。
 懐かしい幼馴染達の横顔のいずれかと重なるような重ならないような淡い面立ち。
 でも、と、総二は思いなおした。
 あの頃の幼馴染の子供なら殆ど見知っている。この年齢の子供が居るとしたらあいつかあいつだろうけど、片方は連休が終わって町に帰ったばかりだし同じ地元に住むもう片方の子供とは明らかにに違う。
 パンを食べ終わりペットボトルをラッパ飲みする姿は確かに昔知っている誰かのような気がするのだけど……
 ぼんやりと思い耽っている所へ後方からクラクションの鳴る音が響いた。立ち上がりそちらの見ると、馴染みのある宅配便の軽トラックが狭い沈下橋をゆっくりと渡っていた。ハンドルを握る人影が総二の姿を見つけ開け放った窓から顔を出し大きく手を振る。
「おい、荷物きてるぞ」
 小屋のすぐ手前で軽トラックは停まり宅配の青年は総二と親しげに話ながら荷物とサインをやりとりした後、まぁ一服するかという具合に助手席からタバコを取り出し咥えた一本に火をつけた。
 狭い村。少ない人口。働き盛りの若い者は殆どが同郷の顔なじみ。宅配の青年も同様、総二の二つ先輩にあたる。
「なぁそういえば聞いたか?」
 咥えたタバコを口から離しふぅっと白い煙を吐き出し青年が話しを切り出した。
「何を?」
「昨日な、F田で子供が行方不明になったんだと。駐在のおっちゃんがそれらしい子供を見かけるか何ぞ情報でもあったら連絡してくれ言うてビラ配っとった」
 F田と言えば総二達の村より上流に位置する郵便局などある若干大きめの村だ。
「行方不明か」
「あぁ小学六年の男の子なんだけどな」
「また何で?」
 親の仕事によっては祝日も休みが取れずどこにも遊びに行けなかった子供達が連休の明けてからようやく取れた休みで学校を休み、旅行に行くような話は昔では信じられなかったろうが今では珍しいことでもない。そうした「休み明けに里帰り」の子供の一人だったらしく、どうせ行くならと遠縁を頼り本州から遊びに来ている家族だった。
「母親が妹の面倒を見ているうちに鳥だか何かを追いかけてそのまま帰ってこんかったらしい」
 一昼夜村を総出で探したらしいがとうとう見つかる事無く今日になったという。
「そりゃ大変だなぁ」
「あぁ。だから明日早朝からこの辺でも青年団に呼びかけて捜索隊を出すことになったからな。総二も家に帰れば連絡があると思うからそのつもりでいた方がいいぞ」
「ん、わかった」
「今頃役のおやっさん達がどういう風に進めるか話し合ってるだろうから夜にでも詳しい連絡が来ると思う」
 すっかり短くなったタバコを携帯灰皿の底にぎゅっぎゅっと指先で押し潰すようにして火を消し蓋を閉じる。
「じゃ、俺はこれで」と車に乗り込み助手席に放り出されていた紙切れを総二に手渡し「これ、その子供の写真のコピーだからまぁ見ておけよ」と早口に伝え今来た道を切り返してゆっくりと走ってゆく。
「明日かぁ」
 となると、今日収穫しなかったのはまずかっただろうか、これは明日もきっと仕事にならない。
 ぼんやりと考えしながら腰を上げ、ふと、さっきまで座っていたレンゲ畑の石垣を振り返った。
 飲み終わったペットボトルの口に自分の口を当て、ふぅと息を吹き込んではいろいろな音を出して楽しそうにしている少年。
 何故、行方不明の子供という話しで思い出しもしなかったのだろう。年の頃もちょうど同じだ。手元に残されたチラシの写真と少年を見比べる。
 が、総二の思惑は外れていた。
 カラーのコピー写真の中に納まっているその子供はいかにも町の子供らしくさっぱりと揃えられた髪、大きなロゴの入った明るい色のブランド物らしいトレーナー。
「全然違うよな」ぼそりと呟いたが可能性がまるで無いわけではない。総二は逸る気持ちを抑え努めてゆっくりと少年に近寄り再びすぐ隣に座り、チラシの下半分に書かれていた子供の名前を口にした。
 ペットボトルの笛で懸命に遊んでいた少年は突然話しかけられてきょとんとした顔になり総二を見上げ、突然聞かされた名前にわけがわからない、といった顔で石垣を飛び降りた。
「そっか、違うか」
 総二は写真のコピーを丁寧にたたんで胸ポケットにしまいこむ。
 そうだよなぁ、行方不明の子供がそんな簡単に見つかるわけないよなぁ。自嘲混じりに心の中で繰り返した。
「なぁ兄ちゃん」
 遠慮がちに下方から声をかけられる。
「なんだい?」
「この苺も食べてええんか?」
 赤い実の詰め込まれたケースを両掌に乗せ鼻先に突き出して聞いた。
「あぁいいよ。キミが摘んだ苺だ」
 行方不明の子供発見かと一瞬とはいえ緊張した気持ちが緩む。
「なぁ今日はもう仕事はせんでええんか?」
「あぁそうだな。水を散布して終わりにしようかな」
「さんぷ?」
「水をやるってことさ。苺の畑に」
 答えながら再びハウスに戻る総二の背中を少年も追いかけついてくる。ハウスの中のムッとした熱気に軽い眩暈を覚えながら少年がまた聞いてくる。
「暑いなぁ兄ちゃんこんな所でずっと仕事しよって大丈夫なんか?」
「あぁ、もう慣れたよ。だけどこの暑さのおかげで太ってる暇がないなぁ」
 眩暈でよろける少年の頭を支えながら笑って答える。
「兄ちゃん、一人でこの苺全部作っとるん?」
 午前中まるっきり無口だったのに、急に人が変わったように話しかけてくる。パンとお茶の効果かな、と総二は心の中でクスリと笑い、まるで餌付けに成功したような気分になった。
「そうだよ全部俺一人の仕事だ。両親は違う農業をやってるし兄貴は跡継ぎだからそっちの手伝いをしてるし」
「嫁さんとかは手伝わんの?」
 マセた質問にどきりとして戸惑いながら
「悪いな。俺はまだ独身なんだ」苦笑いする。
「結婚してないんか。もう結婚してて子供の二人くらい居るように思ったんやけどな」
「また随分具体的だなぁ」
 急に話しが弾み始めて総二も悪い気がしない。この調子なら、と再び少年に質問を試みる。
「ところで、本当に両親はどうしたの?それかせめてボクの名前だけでも教えてくれないかな」
 だがそれに対する返事は返ってこなかった。代わりに
「結婚せんの?恋人くらい居るんやろ?」
 さらに追い討ちをかける質問が振ってきた。
「恋人……恋人はねぇ……居ないんだ」
「ずっと?ずっと居らんかったん?」
「キミねぇ何でそういう話ばっかり。俺の質問にも少しは答えて欲しいんだけどな」
 しかし合わせた少年の目は好奇心で瞳が大きく膨らみ口元がきゅっと上に引き締まり総二からの返事への期待で溢れている。
「恋人はねぇ……そりゃ居たよ……」
 跡継ぎを期待されない次男坊だったので大学も好きに選べた。都会でアパートを借りてアルバイトなどしながら学校へ通ううちに深く関わる女性も現れ、大学を卒業する頃には総二の部屋にもう一組の布団と、彼女の荷物が増えていた。
 そのまま就職をして収入が安定し始めて、もう少し広いアパートに引っ越そうかと話し始めた頃、彼女の両親に同棲が知られてしまい彼女は実家に戻されてしまった。それっきりの縁。
「何だかもうそこに居るのも辛くていろんな事がしんどくなって結局仕事もやる気でなくなっちゃってね。故郷に戻ってぶらぶらしてたら苺栽培の話しをもちかけられてね」
 実家所有の使っていない土地があったのと会社員の頃に貯めた貯金があったのが幸いだった。「二年ほど他所の農家でノウハウを教えてもらってようやく三年前からここで苺を作ってるんだ」淡々と説明するうちに「何でこんな子供にこんな話ししてるんだろう」と奇妙な気持ちにもなってくる。反して少年は総二の目を見上げながら熱心に話を聴いている。
「楽しい?こんな話し」
 ふっと「子供にこんな話面白いわけないよなぁ」と思い聞いてみる。案の定返ってきた答えは「よく解んないけど」という曖昧さだった。
「暑いなぁ」
 少年がハウスの温度に堪えきれずに飛び出した。総二は慌てて追いかける風でもなく、しょうがないなと笑いながらついてゆく。
 そして目の前の川に降りて
「兄ちゃん、オレこっから上に向かって帰るな」
 じゃぶじゃぶと水を蹴散らしながら走り始めた。
「おい、帰るって……」
 帰るのなら送って行くからと車のキーを小屋から持って出てくると、もう少年の姿は影も無かった。川の上流に向かって既に気配も残されない沈下橋の上に立ち総二は背中の冷たくなるのを感じた。
 あの少年が行方不明の子供で無いことは分かった。
 だとすれば、あれは誰だ?
 あの子供は何者か。
 石垣に座ってじっと見た横顔の懐かしさ。そう、確かに懐かしいと総二は感じた。
 ろくに仕事も手につかず、家に帰ると昼間幼馴染から聞かされた話しの通りに青年団の役職から電話が入った。明日の予定と捜索に参加して欲しい旨を淡々と聞かされて、ふとあの少年の横顔が再び脳裏に蘇る。
「そういえばコピーの写真とは全然違うのだけど村で見かけたことの無い子供が今日うちのハウスに居ましたよ」
 あの子供は沈下橋で遊んでいて、日中を総二と過ごした後同じ沈下橋の下をくぐり上流に向かって駆けて行った。
 行方不明の男の子ではありえないだろう、写真と違う容姿、そして訊ねた名前にも反応しなかったと説明をしたのだが、翌朝始まった捜索は総二の話しを元に一縷の望みを賭けその場所から川沿いに上流へと向かって進み始めた。
 一時間ほど後、川上の方から声が響いた。
「見つかったぞぉ」
 捜索に集まった大勢の中で歓声が響いた。
 鳥を追ううち道に迷い帰るつもりで反対方向に向かって歩いてしまい、時に林の中に入りまた時には川に落ちそのまま歩き、すっかり体力を使い果たして別の沈下橋の袂でそのまま眠りこんでしまったのだという。
 その間誰にも姿を見られる事が無かったのが不思議と言えば不思議だったが、とにかくその場に居た全員が子供の発見を喜んだ。
 幼馴染の一人がそっと総二の横にやってきて「良かったよなぁ」と安堵する。総二も「あぁ良かったよ」と返す。
「またこの川で子供が犠牲になるのかと思ったらゾッとしたよ」
 幼馴染が続けた会話に、総二は戸惑った。
「また?」
「あぁ、そういえば総二はあの時の事ショックで忘れてたんだよな、今でも思い出せないのか?」
 思い出せない何か。忘れている何か。立ち止まり頭を抱えていると
「悪かった。つまんない事言っちまった」幼馴染は立ち止まってしまった総二を抱えるように車へ連れてゆき「俺が運転するから」と家へ連れ帰ってくれた。しばらく休んで、ゆっくりしろよと彼は言い「悪かったな」と何度も繰り返しながら仕事に帰っていった。
 家に残されて総二は横になりながら記憶をさぐる。
 憶えていない。遡る。記憶の中を手探りで捜す。
 突然、ふっと懐かしく幼い笑顔に辿り着いた。
「もっちゃん?」
 跳ねるように起き上がり裸足のまま車に乗り込む。行く先はあの沈下橋。
 少年は昨日と変わらずそこに居た。
「懐かしいと思ったはずだ。元樹……もっちゃんなんだな」
 自分も川に飛び降りる。
「久しぶりだなぁそうちゃん」
 にっこりと顔中で笑う馴染みの顔。何故忘れていたのか、それは明白。
 今でこそ一番深い場所でも子供の膝丈程度の水量しかない川だが、二人が子供の頃は胸元に浸かるほど水が流れていた。上流で雨でも降ればそれは更に増え穏やかな流れは一転する。
 その荒れる流れの中に度胸試しで飛び込んだ。総二は何とか岸に泳ぎ着いたが、もう一人はそのまま戻って来なかった。
 ――もっちゃーん――
 手を伸ばし叫んでも友の姿は流れに乗ったまま消えてゆく。駆けつけた大人達が下流で見つけた時はもう息をしていなかった。
 そのまま意識を失い倒れた総二を攻める大人は居なかった。ショックですっかり何もかも忘れ去ってしまっていたせいで、問い詰める事もできなかった。
「そっか、それで恋人とか結婚とかそんな事ばっかり聞いてきたんだ」
 総二が呆れた口調で笑うと「へへっ」と少年も頭を掻きながら笑う。
 二人で同じクラスの一人の娘を巡って争った。勉強でも運動でも結果はトントンでどれだけ争ってもらちがあかず勝負は雨上がりの度胸試しまでエスカレートしてしまった。
「馬鹿な事したよなぁ」
 水の中に尻をつけ座り込む。少年もその横で「そう馬鹿でも無かったさ」並んで座る。
「あの時の洋子ちゃんな、結局町で結婚したよ。今じゃ三人の子持ちのパート主婦だってよ」
「そっかぁ」
 良かったとも残念とも取れるようでどちらとも判断つかない生返事。だが少なくとも「自分が生きていれば」という感触は無い。
「それにしても、なぁもっちゃん。何で今になってこんな風にオレの前に現れたんだ?」
 疑問だった。この川で遊んでこの川で死んだのなら、この川の傍で仕事をしている総二の前に現れる機会は幾らでもあっただろう。それが何故今だったのか。
「解んねーのか?」
「解んねーよ」
 少年はすくっと立ち上がり上流に向かってゆっくりと歩き始めた。
「そうちゃん、お前そろそろ川から上がった方がいいぞ」
「え?」
「山の方で雨が降っとる」
 遠い空に視線を向けそのまま少年は歩いてゆく。
「待てよもっちゃん」
 慌てて立ち上がり背中に声をかける総二に最後にもう一度だけ振り返り
「子供が川で死ぬのを見るのはええもんじゃないからなぁ」
 悪戯っぽくにやりと笑ってそのまま走り消えていった。
「そっか、そういう事かよ……」
 総二は追いかけようと差し出した手をぐっと握りしめ突然の幼馴染の出現を理解した。
 山で雨が降れば川の水嵩が増える。流れも急になる。普段水量の少ない川でも子供一人流すくらいはできるだろう。もしもあの子供があのまま橋の袂で眠っていたならもう一人の「もっちゃん」になっていた可能性は決して低くない。
「そうだよなぁ、川で子供が死ぬのなんて、もう見たくないよなぁ」
 素足に水が冷たい。
 恐らく、行方不明になってから捜索している家族や他の村人にも教えようともっちゃんは何度も試したに違いない。けれど皆捜索で頭が一杯だったのか、誰一人その声を聞くことができなかったのだろう。
 波長が合ったのか、元々一番仲の良かった幼馴染だったからなのか、それとも……
「そろそろ俺に思い出して欲しくなったか」
 川から出て斜面を上がり欄干の無いコンクリの橋に座る。
 どれだけの時間そうしていただろう。長い間では無いはず。やがて少しずつ水嵩が増えていき流れは勢いづき細い穏やかな川は表情を変えた。
「当たったなぁ上で雨降ったんだ」
 澄んでいた流れは薄いミルクコーヒーの色になる。
 きっと今頃この流れを見てあの子供の家族達もあのタイミングで見つかって良かったと心底思っていることだろう。
 小屋の裏の花畑で両手いっぱいのレンゲを摘み橋の上から上流に向けてばらまく。
 花は総二の背中を過ぎやがてミルクコーヒー色の流れにもまれ消えていった。
「今まで忘れてて悪かったよ」
 だけど、もう二度と忘れない。蘇った罪の記憶と一緒に、この川で死ぬ子供が無いように、ここで一緒に見守っていくよ。おまえが喜んで食ってくれた苺を作りながら。
「それにしてもよ、もっちゃん、お前川で遊ぶ子供の神様にでもなっちまったみたいだなぁ」
 総二の目じりから零れた塩辛い温かな一滴が、流れに消えた花を追いかけ豊かな水面の一つに溶けた。





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2007.4.7