永遠の螺旋
まるで水の中を揺らぐようにゆっくりと少女は落ちてゆき、硬いアスファルトの上に足先からストンと降り立った。細く長い明るめの茶色い髪がふうわりと舞いながら背中に収まる。 絹の衣を羽織るように少女にまとわりついていた白い霧が柔らかくうねり、さぁっと音を立てて引いてゆき視界を広げいく。灰色のアスファルトの上には華奢な足元から白いセンターラインが前に向かって伸びていく。そして少女は右足をスッと一歩踏み出した。 「探さなきゃ……」 つま先で引っ掛けただけの空色のミュールの踵が「今日はきっと見つかるよ」と囁くようにアスファルトを蹴った。 歩き始めるとその歩調に合わせるように徐々に霧が晴れてゆき、周囲の景色もぼんやりとながら明るくなってゆく。 「そう、この青い屋根の病院の角を曲がった先の路地……」 誰に言うとなしに呟きながら信号のない小さな角を曲がる。 ほどなくそれは見つかった。白塗りの建物の脇を這うようにへばりついている細長い階段。白く塗られた手すりのペンキはまだらで所々銀色の鉄板が薄く見えたり白い塊がぼっこりとでっぱっている。そして同じく白く塗られたコンクリの足元。足を上げ空色のミュールをそっと乗せるとコツンと優しく響いた。 「うん、これだわ」 二段目までは見つけた喜びで軽く上がった足が三段目で急に、重りのついたように重くなる。 「……やっぱり……違う……」 がっくりとうな垂れた瞬間、引いたはずの霧が再び彼女を包み込み周囲の景色を消し去り白一色へと変えてゆく。最後に残った足元の薄いコンクリもやがて飲み込まれ、また水の中を漂うような重力の中に放り込まれ意識が途切れた。 ベッド横の窓際の淡いピンクのカーテンが揺れ少し肌寒い早朝の秋風がつい先ほどの世界はただの夢なのだよと慰めるが、慣れないミュールで歩き回った形跡を華奢な足首にじんじんする重さと痛みで残す。その重い部分を掌でさすりながら溜息をついた。 ……また、あの夢…… 「もう、嫌になっちゃう」 誰に言うともなしに呟いたつもりだった。 「どしたの麻里?朝からマジメな顔してぇ」 靴の先を眺めながら学校に向かう少女の背中を友人がバンと叩き明るく声をかけてきた。 それでもうつむいて黙ったままの顔をそっと覗き込み心配そうに声をひそめ「ほんとにどうしたの?」と尋ね直した。 「うん、ちょっと朝から憂鬱なことがあって」 歯切れの悪い返事。 「またお父さんとお母さんの喧嘩?朝から?」 小学校の頃から仲の良い友人は少女、麻里の家庭の事情にも詳しかった。 「ん……まぁ喧嘩はいつものことなんだけどね」 苦笑いしながら鞄を持たない方の手で軽く握りこぶしをつくりこめかみをコツコツと叩いた。それを見て「あぁ」と思い出したように囁いた。 「もしかしてまたあの夢?」 尋ねられて、戸惑うようにゆっくりと息を吐き、吸う。静かな深呼吸を数回繰り返してようやく溜息のように答えた。 「うん、あの夢」 「最後にその話聞いたの、ずいぶん前だったからもうすっかり見なくなったと思ってたけどまだ見てたんだ」 「うん、そんなにいつもは見ないけど、月に一回か二回は見るよ」 遡れば、二人が小学校を卒業する年だったろうか、当時は麻里も明るい快活な少女だった。 それが一転したのは最後の学期の寒い朝。アスファルトの上にうっすらと凍った水溜りを靴先で何度も滑らせては戻し、足が前に進まない。家が近かった関係で一緒に登校していた友人が心配気に覗き込む。 「ねぇ、顔蒼いよ。やっぱり休んだ方がいいんじゃない?」 「ううん、家に居るより学校の方がいいから」 両親が急に不仲になってきた頃だった。 もっとも、彼女の両親にとっては長い間かけて繰り返されてきた小さかった諍いが徐々に大きく燃えだし、とうとう耐え切れず幼い娘の前でまで声を張り上げ怒鳴りあう事態となったのだが……多感な少女期の麻里の胸にそれは急に訪れた衝撃として響いた事に変わりはない。 彼女から直接話を聞くことは無くとも自分の母親や近所の大人たちの噂で何とはなしに事情を知ってしまっていた幼い友人は、麻里の表情が日を追うごとに暗くなり沈んでゆくのをずっと黙って見守っていたが、この朝とうとうこらえきれずに口火を切った。 「ねぇ、そんなに一人で悩んでないで、あたしにも何か話してよ。もしかしたら話すだけで少しは気が楽になるかもしれないじゃない」 テレビで見たドラマの受け売りそのままだったが、気持ちは本物だったろう。それは真っ直ぐに麻里の胸に届いたのだろう。ふっと友人の顔を見つめ何かを話そうと口を動かすが言葉が出ない。その代わりに見開かれた両瞳からぽろぽろと大きな粒が溢れてこぼれはじめた。 「だ……大丈夫?」 悪い事を言った?慌てて麻里の小さな頭を抱え、自分の頬にすりよせた。 しかし、ようやく落ち着いた麻里から帰ってきた返事は、覚悟して待っていたものとは違っていた。 「怖い夢を見るの……」 ずっと、ずっと何かを探し歩いている。 そして必ず見つからない。 その夢は何もかもがリアルで、小さな体にまとわりつく白い霧のさわさわとした感触に冷たさ、ヒールの低い空色のサンダルが道路を蹴って足の裏に響かせる軽い音と刺激。 歩き回って探し疲れて、じんじんと痛む足首。目覚めてもつい先ほどまで現実に歩いていたかのように残る重い痛み。 それでも、随分長い間、その夢を見た時は変な夢を見たなぁという程度で何度見てもそのまま忘れ去っていたが、眠りを妨げいきなり夜中響く両親の怒鳴りあいを初めて聞いた深夜、震えながら布団に潜り込んで明け方に見た何度目かの夢ではっきりと思い出した。 「忘れてただけで、ほんとはずっと前から同じ夢を見てたんだ、て思うと急に怖くなって。その事に気が付いたのとお父さんとお母さんの喧嘩が同じ頃からだから何か関係があるのかなと思ったらもっともっと怖くなって……」 涙まじりの訴えを驚きながら聞いていた少女がようやく否定した。 「そんなことないよ、夢は夢だよ。きっとおじさんとおばさんの喧嘩に不安な気持ちが怖い夢になって出てくるんだよ」 「そうかな」 「そうだよ、怖がることなんかひとつも無いよ。きっとそのうちおばさんたち仲直りすれば夢も見なくなるよ」 「そうだと、いいな」 ようやく友人の顔を真っ直ぐに見る事ができて麻里は少しだけ微笑み返事する。 しかし両親の喧嘩は日を追うごとに激しくなり、父親は滅多に家の中で顔を見ることも無くなった。たまに顔を会わせれば深夜中罵倒しあう声が響いた。 その環境の中で麻里は高校生になった。 「もう、四年目の不仲」 まるで詩でも朗読するように呟く麻里の横顔に冷たい汗を感じながらまた尋ねてみる。 「ねぇ、麻里、ほんとに大丈夫?」 「大丈夫よ、たぶん」 不確かな返事が頼りなく、けれどやはり詩の朗読のような口調で返ってくる。 「麻里……」 フローリングの広い部屋に暖かなピンクのカーテンが揺れる。それと同じ色のベッドカバーをめくりながら麻里は唱えるように胸の中で繰り返す。 「昨日見たばかりだもの、続けては見ないわよね……大丈夫、きっと今夜はゆっくり眠れるから……」 あの夢の後、数日は寝る前に必ず自分に向けて唱えるおまじない。 しかしそれが効果を見せたのは僅か三日だけだった。 これでまたしばらくは見ないだろう、大丈夫、と安堵した四日目の深夜、期待は裏切られた。 珍しく早い時間から酔って帰った父親と母親との激しい口論。巻き込まれまいと部屋に閉じ篭るけれどヒートアップする怒鳴り声は容赦なく耳に入る。 外の恋人のこと。 今月の生活費のこと。 離婚のこと。 慰謝料のこと。 麻里のこと。 親権のこと。 譲るふりをした押し付け合い。 布団の中で聞きながら、けれどもう涙も出ない。 「もう……やだ、こんなの。もういっそこのまま消えて居なくなってしまいたい……」 顔を埋めた枕は長い間洗濯を忘れられた酸っぱい臭いでツンとしたが、それでも顔を上げてあの怒鳴りあいを聞くよりは随分マシと耳を塞ぐように両手で抱きかかえ更に深く埋まった。 ふわり。 水の中を漂うような重力の白い霧。 灰色のアスファルトにストンと落ちる足。空色のミュール。 「あぁ、私、また来たんだ」 夢の中の自覚。晴れていく霧の先をセンターラインが真っ直ぐに記す。そして踏み出す一歩。 青い屋根の病院の角。 「うん、ここまでは間違いないのよ」 長い茶色の髪を揺らしながら細い路地を入る。 白塗りの建物には先日見つけた階段は無く、電線一本がようやく入るほどの隙間だけを残してすぐ横に違う建物が建っている。 「この先?だったかな……」 辿っているのは夢の記憶。 この町並みは有希の現実の世界にある町並みではなく、幼い頃から見続けるうちに少しずつ、捜し歩く度に広がり大きくなってきた町。 その中で探すたった一つの階段。 目覚めてから思い出すこの夢は怖いイメージしか無かったけれど実際に夢の中に入ってみれば必死に探すその先に辛い現実から逃れる何かが見つかるような気がして探さずにはいられない。 細い細い路地を歩き続けて足が疲れ悲鳴をあげる。 「もうダメ……」涙が零れる。 夢が覚めかかっているのか、遠い上空から聞き覚えのある怒鳴り声が二種類降ってきた。 「もう、見つからないのかしら」 諦めの溜息。 その瞬間だった。 溜息に吹き飛ばされるようにさぁっと消えてゆく狭い路地。代わりに広がる石畳の明るい道。 「あ」 疲れきった足が有希の思いに反応して再び動きはじめる。 「そうよ、この先……」 行き止まりにひっそりと建つ木造の小さな小屋。その横に寄り添うようにそびえる大木。そして大木に絡みつくように上を目指す螺旋階段。 白く塗られた木の手すりに触れ、足元の薄い白板に空色のミュールをカツンと響かせる。 小さな確信を胸に一歩、一歩ゆっくりと上り始める。 天に向かってそびえる階段は遠く長く果てし無いけれど確実に麻里を誘っていた。 「見つけた。やっと私、見つけた」 見上げた天空に浅葱色の風が吹いていた。 「……起きなさい、もう七時になるわよ……」 甘く優しい声。目を開ける前に鼻から流れ込んでくる幸せの香り。こんがり焼けたトーストとバターの焦げる匂い。紅茶に蜂蜜。 「ん、今起きるから」 ドアの向こうから「早く降りてらっしゃい」と心配そうに言い残し階下へ降りる足音。 目を開ける。 「朝かぁ。何だかすごく寝たなぁ」 ふと窓際を見る。 「あれ?私の部屋ってこんなだっけ?」 髪をかきあげようと手を首の後ろに回す。けれどそこには短く切り揃えられた髪の先がさらりと指先を素通りする。 「……?髪こんなに短かった……?」 ぐるりと部屋を見渡しながら奇妙さが一瞬際立つ。 「やだな、まだ寝ぼけてるのかしら私」 ざわりとする胸騒ぎが背筋の真ん中を駆け上がり、沈黙が凍る。 が、それも下から再び聞こえてきた「早く来ないとトーストが硬くなるわよ」という声に掻き消されてしまった。 「ま、いっか」 ベッドを降りるともう迷うことなく壁にかけられた濃紺のセーラー服に着替え部屋のドアをくぐり抜けた。 その後姿をやわらかく見守る窓辺で浅葱色のカーテンが揺れた。 「今日は学校行けそう?」 制服を着て降りてきた娘に安堵の表情で尋ねる母親。しかし帰ってくる答えはいつもと同じ。 「どうしよう……」 制服は着たもののふんぎりがつかない。トーストを食べる口元も重く疎かになる。 「もうすぐカナちゃんが迎えにくるわよ?」 「うん……でも……」 近所の幼馴染で小学校からずっと一緒に登校していた友達の名前を出されても瞳は暗く沈んだまま、輝かない。 そうするうちに玄関のチャイムが鳴った。 「おい、迎えにきたんじゃないか?」 出勤の支度ができた父親がダイニングに現れ少女の前に座り用意されたコーヒーをすする。母親は小走りで玄関に向かい幼馴染と一言二言挨拶を交わしている。 「ごめんね、まだ何だかはっきりしなくて」 「いえ、いいです。もう少し待ってみます。行けるようなら一緒に行きますから心配しないでおばさん」 「そう?良かったら待ってる間紅茶でも飲んでて……」 玄関に座り友人が紅茶をすする気配がする。 「加奈ちゃん」ダイニングから顔を出す。 「万里ちゃん、おはよう」 弾む声で「おはよう」と言われ釣られて「うんおはよう」と答えるが、その後が続かない。それを察して友人が訪ねた。 「どうする?学校」 尋ねられて、少女の脳裏に嫌な記憶がぐるぐると走馬灯のように駆け巡る。 破られた教科書、残されたページは全て黒いマジックの落書きだらけで数式も年表も追えない。 落書きを彫られた机の中に詰め込まれた雑巾と腐った給食のパン。 息が苦しくなってきて呼吸ができない。万里は胸を押さえてしゃがみこんだ。 「いいよ、無理しないで」 しゃがみこんだ小さな背中を抱きしめながらカナは囁いた。 「ん、うん」 声にならない声で頷き、万里はそのまま玄関に倒れこんだ。その様子を見て母親が加奈に頭を下げた。 「ごめんね、毎日来てくれるのに……」 そこから先の会話はもう万里には聞こえない。 いいんです、プリントとか持ってくるので家で勉強…… 毎日つき合わせて…… 私も復習になるから…… 小学校から幼馴染の少女二人は中学に入ってクラスが分かれてからその後の学校生活を明暗に分けた。 きっかけは何だったのか、既に明らかではない。が、万里は集団生活の生贄として晒された。 執拗な嫌がらせと無視はマリを追い詰め教室から遠ざけるのに日数を要しなかった。 遠く離れたクラスで、幼馴染の変化に加奈が気づいた時にはもう遅かった。 沈んでいく意識はやがて深い眠りになって夢を呼ぶ。 全身を白い霧に包まれて、風に誘われた風船のようにふわりと一度舞い上がり、ゆっくりと下降していく。灰色のアスファルトがコツリと鳴いた。 足先にぶら下がっていただけの浅葱色のミュールに爪先をきちんと収め、真っ直ぐ前に視線を向けると、まとわりついていた白霧がゆらりとうねりさぁっと音を立て引いていく。 足元から真っ直ぐ先に向かって伸びる白いセンターライン。道の両側に並ぶ建物はまだ霧で薄く霞んで民家なのかビルなのかはっきりとしない。しかし万里にははっきりと自分の行く先が見えていた。 「この次の角を曲がって、緑の屋根の建物の横から……」 一歩を踏み出した。 目が覚めるとベッドの上。カーテンに透けて入るほのかに眩しい午後の日差しの中で妙に気だるい体を「うぅん」と伸ばしながら呟いた。 「また、嫌な夢見ちゃったぁ」 この夢の後は必ずひどい疲れでぐったりしてしまう。特に足首に残る痛みは何度経験しても慣れない。何よりも後味の悪いのが、探して歩き回ってようやく見つけた階段。 これを登ればきっと辿り着く。 喜びで指先まで震わせながら一段、二段登る。 そして三段目で必ず胸をよぎる違和感。 「違う?」 疑問を感じた瞬間に、また白い霧が体を包み始め緩やかに目覚めのベッドへ導かれてしまう。 立てた膝に顔を埋め溜息をつくと涙が溢れてきた。 泣いているうちに青かった空が赤く染まり始めた。 何度かドアをノックし「お腹減ってない?」と母親の心配気な声を聞いたが返事をしようとすると嗚咽になり結局黙ってしまう。 膝を抱えて一人過ごす数日間が過ぎた。その間夢は一度も見る事無く、ようやく落ち着きを取り戻した頃だった。 「そういえば、最近加奈ちゃんの声を聞いてない」 誘い合って登下校するようになってから既に何年。加奈が朝迎えに来なかったのは彼女が病気で休んだ時だけだった。 「風邪でもひいたかな」 ぼんやりとした頭でドアを開け階下の母を呼ぼうとした時、懐かしい声が聞こえた。 一つは万里の母親。そしてもう一つ。随分長い間疎遠になっていたが確かに聞き覚えのある、電話で聞けば間違うほどにそっくりな加奈の母親。瞬間に全身から汗が噴出し胸を突き刺す痛い記憶。 最後にその声を聞いたのは登校拒否が始まった頃。 学校に行きたくないわけじゃなかった。勉強は嫌いだけど脱線して話が弾む先生の授業は好きだった。けれど全身が教室に入る事を拒否した。 母親にも上手く話せない、自分で整理しきれない不安とイライラを聞いてくれる唯一の友人だった。 晩御飯が終わっただろう時間を選んでかけた電話に出た馴染みのある優しい声は加奈の不在を告げ「ごめんなさいね」と最後に言い電話を切った。 受話器の向こうのツーツーという無機質な音を聞きながら繰り返し思い出す。「ちょっと留守なのよ」と言われた向こう側に聞こえた、テレビに反応しているらしい友人の笑い声。 その夜は加奈が自分の愚痴を聞くのがもう嫌になり母親に居留守を頼んだものと思ってしまって随分泣いたが、翌朝からまた変わりなく迎えに来てくれる彼女を見て、万里は自分の立場を知った。 「あ、私、加奈ちゃんのお母さんからは良く思われてないんだ」 不登校、苛め、そこから始まる保護者会での噂。友達の母親から疎まれていると判断する要因は幾らでも想像がついた。 嫌な予感と胸のざわめきを両掌で握り締めながら階段のすぐ隣にあるリビングから聞こえてくる声に耳を澄ます。 受験、内申書、大事な時期。 友情、優しさ、裏目に出る結果。 教室から撤退した子供の友人は次の生贄になる。 毎朝誘いに来る、先生からプリントを預かる、それだけで加奈が自分の身代わりになりつつある事を万里は知った。 「うちの子はそれでも学校を休まず頑張っているんです。その努力を無駄にさせたくないんです」 加奈の母親が切々と訴える。 私のせい? 私のために? 苦しみが止まらない。目の前が暗くなる。 そしてまた夢に降り立つ。 路地から路地に入る。歩けば歩いた分、どこまでも延びていく灰色のアスファルト。 「この角を曲がれば……」 そこに必ず在ると信じて曲がった先にはまた違う路地。確かにここだと思ったのに……確証は迷いに傾いていく。 ふと立ち止まって振り返れば背後の景色は過ぎる端から白い霧に隠れ、頼りない気持ちに拍車をかける。もう、どれだけ歩いたか解らない。 足首はずきずきと痛み膝が震える。立ち止まりすぐ横の白壁に寄りかかり肩で息をしながら額にかかる短い黒髪をかきあげると、涙が出てきた。 「もう、嫌」 降り立った時胸に抱いていた期待が泣き言に代わる。頬を温かい一筋がつたう。 路上に落ちた一滴が新しい道筋を開いた。乾いた川に放流された水が流れ走るようにアスファルトが広がり行く先を浅葱色の風が招くようにそよいでいる。最後の力を振り絞る。 並ぶ建物で円を描くように丸く広がる石畳の広場。真ん中に小さな泉。涼しい音を立てて湧いてくるその一筋を中心に螺旋を描きながら水底へ向かって白い階段が降りていた。 恐る恐るミュールの爪先を水につける。階段の一番上の段に踵が降りるとコツンと柔らかい波紋が広がった。 二段、三段……そして更に、ただひたすら降りてゆく。 見つかるかしら? 今度こそ? 見つけたのかしら? これがそうなの? 長く果てし無く降りてゆく階段はその先に何一つ底を見せなかったが、不安も与えなかった。 「見つけた、私、見つけたわ」 万里は確信を抱きながら駆け下りて行った。見下ろす先に赤く広がる夕焼けが広がった。 頭痛と共に目覚めるいつもの夕暮れ。 窓辺の壁に直接画鋲で留めただけの真っ赤なカーテンがきちんと閉まりきらない窓の隙間から漏れる風に逆らう術も無く小さく揺れた。 「もう……このボロアパート……」 冷たい冬の風を遮ろうとガラス窓を揺らすと、そのまま枠から外れて、歪んだ木枠の窓ごとベッドの反対側に彼女は落ちた。 「痛ぁ……」 抱きしめていた窓をベッドの上に放り投げる。開放された窓から夕日の色の冷たい風がなだれこんできた。 白いシルクのキャミソールとショーツだけという姿で彼女はセミロングの赤茶けた髪を掻き乱しながら呟いた。 「まぁいいわ、夢見もあんまり良くなかったことだし」 とりあえず寒さから逃れるためそのままウールのコートを羽織る。とても当たり前な馴染んだ行為だったが、ふと覚える妙な違和感。振り返った窓辺。 「うちの窓ってこんな色だったっけ?」 その問いかけに答えるように携帯電話のアラームが鳴った。 「あぁ、もうこんな時間かぁ」 思考を諦めて洗面所に向かう。その途中でふとオープンなままの窓を振り返り「後でゴミ袋でも貼ればいいか」と苦笑いした。 歯を磨き顔を洗いさっぱりとした素顔で見つめる小さな備え付けの鏡。その中にちょんと納まる丸い顔。 「もう少しこの鼻が小さかったらもう少しマシな生活してたかもね」 まだ幼さの残る素顔に化粧のデコレーションを塗り重ねていた最中、ドアのインターホンが鳴った。 「真理!お客だよ!さっとさ降りておいで!」 野太い婦人の声に「はぁい」ととりあえずの気だるい返事を返す。 急いで駆けつけた所で待っている仕事はいつもと変わりない。俗に言うなら性欲処理。 派手な色のネグリジェをだらだらと身につけながらもう一度外を臨む。 「おんなじ赤い色なのに、全然違う感じよね」 諦めの溜息をひとつ。 「それにしてもあの夢……」 随分昔から見ている夢だけど、探し物が見つからなくて、いつも見つからなくて走り回った疲ればっかり足首に残る夢だけど…… インターホンが再度鳴る。 「まだかい!?」 「はぁい」 そんなに叫ぶなよ、と苦笑しながら真理は先ほどまでの思いを振り切るように小さなミュールを疲れた爪先に引っ掛けた。その爪先を撫でながら、諦めの溜息をつく。 玄関の向こうでは同じ建物の似たようなドアが似たような音を立て開いて閉じる。 同じような派手な薄い布キレを身にまとった、同じような境遇の少女達がカツカツと足音を響かせながら皆階段を下りていく。 真理も、これ以上遅れては給料に響くと危うんで仕方なしにドアを開けた。そしてこれから自分が降りていくささくれのある黒ずんだ木造の階段を見ながら 「あたしが探してる階段の方が例え夢でももっときれいだわ」 と薄く笑った。 きっとまたあの夢を見るだろう。探して歩いて疲れ果てて目覚めては溜息をつき、目覚めればまたこの現実の暮らしを眺めて「何であたしはこんな風にしか生きられないんだろう」と溜息をつき、そしてまた夢に降り立つ。 「だけど……」 きっともうすぐ。そう遠くはないような、そんな気がする。真理は最後の一段をトンと降り、無意識にそう感じた。 永遠の螺旋が今度の「まり」にもすぐ傍まで近づいている。 − Top− −Novel Top− 2006.8.14 |