密室育児






 がらんとした何もない部屋で、男の子は無表情に畳をむしって遊んでいた。
 部屋の隅には小さな食事用の丸テーブルがひとつと畳まれた布団。家具らしいものはただそれだけ。四畳半の狭い部屋がやけに広く見える。
 薄いクリーム色の壁に四方を囲まれた中でたった一つ、銀色に光るドアのノブがやたら目立って光っている。
 玩具は正方形の積み木が五つ。男の子の紅葉のような小さな手にすっぽり収まる大きさのそれは、色も絵も何もないただの木製積み木だが、丁寧にやすりをかけられすべすべになった木肌に薄くニスを塗った、上品で高価そうな作り。
 清潔で塵ひとつ、危険を感じるものひとつないその部屋は一見して理想的な子供部屋にも思えるが、同時に妙な異様さを感じさせずにはいられない。

 男の子はその部屋で四歳になっていた。
 身体は小さく細く目はどこか焦点が定まらず、半開きの口から絶え間なくよだれがこぼれ、とても四歳には見えない、どう見ても二歳足らずにしか見えないのだが、間違いなくこの部屋で四年と七ヶ月の月日を生きてきた。
 片方の手の指で畳に爪を立ていぐさをほじくり、もう一方の手の指で一本一本をひっぱり抜いてゆく。男の子の周囲には掘り抜かれたいぐさがばらばらと散らかっている。
 ドアが開き、化粧気のないショートカットの女性、由香が昼食の皿を片手に、もう片手に白いトートバッグを抱えて入って来たが、気付かないのか、興味がないのか、何の反応もなく黙々と畳に穴を開け続ける。
 由香はその丸まった小さな背中をちらっと見て、まっすぐテーブルに向かった。
 コト、という皿をテーブルに置いた音に、初めて反応を見せ、由香を振り返る。
「う。。。なぁ。。。」
 未発達な喃語をたどたどしく喋りながら四つん這いで移動しはじめる。テーブルに辿り着くとその端につかまって立ち、食事の皿に手を伸ばした。
 今日の昼食は鮭ふりかけとご飯、豆腐の卵とじ、ちりめんじゃこ、薩摩芋の味噌汁。
 伸ばした手が豆腐を掴み、握りつぶす。指の間からぐにょぐにょと豆腐がはみ出すが、それを口に近づけ舐めるように食べ始める。食べ物を鷲掴みして口に運ぶ、その合間合間に由香がスプーンで皿の上の物をすくって小さな口に放り込む。
 その光景は食事をするというよりも、餌を食うと言った方がむしろ相応しいだろう。
 がつがつと食べ物と口の間を往復する手が味噌汁の椀にぶつかりこぼれた。それは男の子の白いTシャツと白いズボンを茶色に染めた。
 由香は
「ばーか」
 と、それだけ一言言って、汚れたTシャツとズボンを脱がし紙おむつ一枚にした。
 しかし男の子はそんな事は気にも留めずにテーブルにこぼれた汁に口を直接つけてすすり、手で薩摩芋を拾い口の中に放り込む。一日三回の食事のうち、一回はこうして茶や味噌汁を必ずこぼすので最初から熱い物は与えない。 その間にバッグからタオルを取り出し腹や太ももにかかった味噌汁を拭き取り、畳にこぼれた分も拭き、汚れた服をビニールに詰めた。
 米一粒ちりめんじゃこ一匹まで皿を舐めるように食べ尽くし、すっかり皿が空になると、汚れた手と顔を今度は違う濡れタオルで拭きキレイにする。その間男の子はとてもおとなしく由香が手を掴もうとすると手を差し出し拭かれるがままにされている。
 テーブルも拭き、食事の後をキレイに片付けると、今度はバッグから紙おむつを一枚取り出す。それを見た男の子は自ら横になり足を上げてみせる。
 本当ならとうにおむつは外れていてパンツで良い年齢にもかかわらず男の子は今だ紙おむつのままだった。 その紙おむつはまだあまり汚れていなかったが、恐らく一回、ほんの少しだけおしっこをした程度なのだろうが、構わず由香は新しいおむつに取り替える。そして先ほどまで男の子が畳をむしっていた場所へ行き、むしられたいぐさを丁寧に拾い、古い紙おむつに包んで閉じた。
 新しい白いTシャツと白いズボンに着替えさせ一通りの事が終わると由香はさっさと荷物を片付け皿を手に持ちドアを開ける。
 その背中を男の子は指をくわえじっと見ていたが、由香が振り向きもせずに出て行きドアを閉めると、また、ぼろぼろになった畳に向かいいぐさをむしり始めた。

 ドアを閉めた後、そのドアにもたれかかり由香はむしられた畳を思い出し
「あーあ、また畳を取替えなきゃ」
 溜息をもらし正面にあるピンクのレースのついた暖簾をくぐりキッチンに入った。

 由香は男の子を育てるのに、丁寧に丁寧に、とにかくキレイにするよう努めた。紙おむつは一日十回以上は取り替える。眠っている時でも一度でも濡らした気配があれば取り替える。
 バッグの中には濡れタオルと普通のタオルが常時ニ〜三枚ずつ入っている。
 着替えの白いTシャツと白いズボンはいつも洗いたてで、少しでも汚そうものならすぐに取り替えて揉み洗いし、小さな染みひとつ残させない。自分自身もいつも同じような染みひとつない清潔な白いワンピースを着ている。
 男の子が泣いてぐずれば抱っこしてあやしもする。身体を揺すってやり時には少し微笑んで頭も撫でてやる。
 しかし話し掛ける言葉は「ばか」の一言だけ。顔を見れば「ばーか」と言い食事をこぼしたり歩いていて転んだりすれば「ばーか」と言う。他の言葉は男の子が生まれてから一度も一言も子供の前で口にしたことがない。
 食事は十分栄養を考えて作ったものを与え、風呂に入れ髪を梳き清潔にし、こまめに面倒を見るが、普通の母親がやるように絵本を読んでやったり歌を歌ったり身体を使って遊ばせてやるというようなことは決してしない。おむつを外しトイレで用を済ませる練習もこの年まで一度もしていない。
 この四年と七ヶ月の間、外に遊びに連れて行くことも一度としてなかった。
 男の子にとって、この四畳半の部屋のみが世界の全てだった。
 部屋は高層ビルの一室らしく、外からの雑音も入らない。風の吹く音も雨の当たる音も聞こえない。そもそも窓自体が無い。時折空調の働く『ぶぉー』という音が聞こえる以外の音が存在しない。
 肉体的に虐待を加えているわけではなかった。男の子の身体は傷ひとつなくとてもきれいだった。
 完全に放置されているわけでもなかった。ただ生物が生きてゆくのに必要なもの意外を与えていないだけだった。
 そして結果として、発達の遅れた子供が一人出来上がったのだった。

 四畳半の部屋の片隅に設置したビデオが、男の子の、あくびをし目をこする姿をとらえ、台所に置いてあるモニターにその様子を写した。
 椅子に座って雑誌を読みながらモニターを観察していた由香は立ち上がり雑誌を閉じると四畳半の部屋に向かった。
 布団を敷いてやる。そして眠そうにぐずりはじめた男の子を抱き上げる。ゆらゆらと身体をゆらし、目がとろとろしてきた頃布団に寝かせ、背中を小さく叩いてやると、二分ほどの間にすっかり眠ってしまった。
 熟睡しているのを確認して隣の部屋から掃除機を持ってくる。
 畳に掃除機をかけ、一度濡れ雑巾で拭いた後もう一度空拭きをする。
 むしられた畳を外し、運び出し、新しい畳と入れ替える。
 全ては静かに、静かに、男の子を起こさないように行われ、終わった。
 午眠から覚めた男の子は、畳にむしった跡がないのを見つけて、きっとまた新しい畳をむしり始めるだろう。
 新しい畳の予備が残り三枚しかなかったのを思い出して、後でまた注文しなければ。。。と考えながら部屋を出る。

 しかし、新しい畳の出番はやってこなかった。
 午眠から男の子が目覚めることはなかった。

 いつもなら起き上がり、また畳をむしりに行くか起きぬけの水を欲しがってぐずり始める時間をとっくに過ぎても、起き上がる気配がモニターに映されない。
 由香はひとつの確信を持ってドアを開けた。
 男の子は横になり丸まって、人差し指と中指と薬指の三本を口いっぱいに咥え布団をよだれでどろどろに濡らしたまま目を閉じていた。
 由香はその顔の鼻に頬を近づけ背中に手を当て、一分ほど様子を見て、確信が確認されたのを判断し、部屋を出てキッチンに備え付けてある電話の受話器を取った。
「C二十七担当の荒井です。森山先生をお願いします。」



「四年と七ヶ月、十三日か」
「今回は長かったですね。やはり最低一個でも言葉を与えたのが違うのでしょうか」
「フローリングを畳にしたのも影響したかもしれん」
 白衣姿の初老の医師と若い医師が書類を見ながら話す。
「今回投与したものは積み木を五つと畳の部屋、それと言葉を一つ。。。それにしてもこの言葉、誰が選んだんですか?『バカ』だなんて」
 若い医師が苦笑した。
「すみませんね、私ですよ選んだのは」
 横から由香がフロッピーを差し出しながら口をはさんだ。
「うっかりコミュニケーションを取ってしまいそうな単語を選ぶと愛着が湧いてしまうでしょう?あ、データの入力終わりましたよ」

「お疲れさん。キミも今回は長くて大変だったろう。次のサンプル出産まで三ヶ月ほどあるからゆっくり休んできたまえ」
「そうします。本当に今回は長くて。。。あやしたりしながらつい何か喋りかけてしまいそうになりましたよ」
 由香はふぅっと溜息をつき
「それでは私はこれで。。。サンプル出産が近づいたらまた連絡ください。それまでハワイにある療養所でのんびりしてますわ」
 二人の医師に背中を向けて部屋を出て行った。
 その背中を見送って
「彼女、今回は危なかったですね。危うく母性が目覚めるところだったんじゃないです?」
「女とはそうしたもんさ。まぁこの仕事も今回限りで、次はサンプル出産に廻ってもらうしかないな。この研究の存在を知られた以上放っておくわけにはいかんしな」
「ではハワイの実行班に連絡を入れておきますね。それと次の保育担当を用意しておきましょう」
「そうしてくれ。実行班にはくれぐれも上手にやるよう伝えておいてくれよ」
「前回の失敗は痛かったですからね。本当に死なせてしまって。次は事故ではなくドラッグか何かを上手に使わせますよ」
「ああ。必要なのは妊娠させて体内で胎児を育てる器だけだからな。上手く植物にしてしまってもらわなくては。。。」
 老医師はフロッピーをコンピューターにセットし、書類と見比べながらデータのチェックを始めた。
「案外畳というのが良かったのかもしれん。今度は言葉も玩具も与えずに畳だけでやってみよう。フローリングで言葉も玩具もなしの時のデータと比べてみたい」
「データ上でも積み木で遊ぶより畳をむしる時間の方が長かったですしね」
 二人の医師は顔を見合わせ頷くと、次の実験のカルテ作成に取り掛かった。



Top
Novel Top
2003.10.12