長い夏休み〜麻衣子〜





 懐かしい懐かしいこの涼しい集落。
 最後に来たのはいつだったか。。。
 おかっぱのよく似合う少女時代だったはず。
 そうだ、縁側で九九を一生懸命暗記していた。あれは8歳頃の夏休みか。
 山菜や茸によほど興味でもない限りやってくる人のいないこの小さな村。
 麻衣子の母方の祖母の母、要するに曾婆さんが居なければ、一生縁などなかったろう。
――何故、ここに来なくなってしまったのか――
 曾婆が死んだのはまだずっと後のことだったから、それが原因でないのは確かだろう。

「それにしても何でまた急にこがいな田舎に来んさったかねぇあのお嬢さんは」
 縁側でぼんやり外を眺めていると、奥からおばさんの声が聞こえてきた。
 用事で出ていたおじさんが戻ってきたのだろう。
「就職に失敗した言うけん、まぁいろいろあるんやろう」
「そやけど婆ちゃんの葬式にも来ぃせんかったくせに、急にほいっと顔出しよって」
 不意の訪問に、良い顔をされていないだろうは十分解っている。
 陰口も小言も、この程度なら覚悟の上。
 そんなことより、最も不可解なこの自分の気持ち。
 何故、長年忘れていたようなこの村に、急に来る気になったのか。
 いくら就職がうまくいかなくて傷心だとはいえ、他に行く場所は幾らでもあっただろうに。。。

「おばさん、私ちょっと散歩でもしてきますので」
 縁側から腰を上げ、奥から聞こえる返事も待たずに何もない小さな庭をつっきる。
 少し歩くと小さな畑。小川。山に続く小道。
 まだ青い小さな蜜柑のついた木々の脇道をぽつぽつと歩く。
 気が付くと村の外れまで来てしまっていた。
「ホントに小さな村。。。年寄りばっかりになっちゃうのもしょうがないわ」
 ここに来てから、麻衣子はまだ一度も“若い人”というのを見ていない。
 小学生らしい子供が、数人。
 殆どは中学を出ると町の知人を頼って出て行ってしまう。通える距離内に高校がないのだ。
 自然、若い夫婦も、もっと実入りのいい職を求めて、子供の教育環境を求めて、町に出ていってしまう。
 わずかばかりの蜜柑山と畑にしがみつくように、残った年寄りと、その年寄りを捨てきれない家族が残る。
 麻衣子の世話になっている家も、昔は大家族であった名残の残るその屋敷に、今では初老の夫婦二人が住むのみである。
 かろうじて記憶に残る、昔遊びに来た時の賑わいを思い出す。
 あれは確か夏休み。まだ生きていた曾婆を慕って親戚が集まっていた。
 しかし、その頃から既に過疎は始まっていて、皆が帰ると村は途端に静かになるらしく、
「これじゃ祭りも寂しかろうに」
 顔も覚えていない叔父の一人が酒を飲んでぽつりと言った一言が蘇る。

「これじゃ、祭りも、寂しかろうに」
 なんとはなしに口にしてみる。

 友達は殆どが内定を決め、落ち着いた。
 決まらなかった者もバイト先での地位を確立していて安定らしい。
 自分一人が取り残された。
 人生という名の祭りに一人、背負う神輿。



「。。。あっ。。。」
 ぼんやりと歩いていると、何かにつまづいてよろけてしまった。
「やだなぁ、田舎の道はこれだから。。。」
 足元を見て、つまづいたモノの正体を知る。
「こんなところに、石段?」
 雑草で覆われた石の階段は少し顔を上げた所に見える木の門へと導いていた。
「それにしても、この雑草。あそこ、人住んでないのかしら」
 住人に出て行かれ、放置され、朽ち行く家屋すら珍しくはない。
 この村内でもそんな家屋は2〜3あり、数少ない子供達の格好の遊び場となっている。

 特に何かに強く惹かれたわけでもない。が、膝まで伸びた雑草に隠れるようにひっそりと見える冷たい石の塊が、何かを囁きかけるようで、その囁きに誘われるがままに足を乗せる。
 サンダルの細いヒールが、誘惑するように小さくコツっと鳴いた。
 登りつめた階段の終わりに待ち受ける、太い柱でしっかりと構えられた門。
 両脇の柱に、×を描いて釘で打ち付けられた板。その奥に閉じられた木の扉には、大きな鉄の南京錠。
 明らかに侵入者を拒んでいる。
「無関係な人間は入るなってことかなぁ」
 赤く錆びた釘がどれだけの長い間そのままに放置されていたかを語る。
 拒まれている。
 そう感じると、余計入ってみたくなる。
 今まで感じたことのない妙な感情。
 今までなら、自分を無視すするモノ、拒むモノに、興味を感じることなんて、無かった。
 なのに、今この門に感じているのは、興味どころか。。。魅了とも言えるだろう。
 胸の奥できゅんきゅんと鳴り出す好奇心。
――こんな気持ち、初めてかも。。。

 しかし、現実には、門からさらに横に伸びる高い土壁。
 湧き上がる好奇心が満たされず、ふつふつと不満を漏らし始め、消化不良をおこしそうだ。
 子供のようにダダをこねて地団太を踏んで叫んでやりたい気分だ。
 かつてここまで何かを欲したことがあっただろうか?
 たかだか田舎の朽ち果てた門じゃないか。
 冷静になるよう努めてみると、自分にもそんな感情があったものかと、今度は無性に恥ずかしくなる。
 頬に手を当てると、ほんのり暖かく、赤面しているのがわかる。
 恋人との関係でも、こんなに感情揺さぶられる事は、無かったように思えて。

「庄治。。。」
 ふいに数ヶ月前まで熱く語りあった青年の顔を思い出す。
 高校の同級生だった彼は、卒業すると大学が変わってしまうから。。。
 そう言いながら放課後の人気の消えた図書室に、半ば強引に麻衣子の制服の袖口を引っ張り連れて行き、告白してきた。
「このまま卒業して縁を切ってしまったら二度と会えないような気がして」
――縁――
 今時の若い連中に相応しくない、クラシックな単語がツボにはまって、麻衣子は庄治と卒業後も付き合うことを受けた。恋人として。
 その庄治と別れることになった原因も、やっぱり就職だった。
 大学に入った頃からずっと続けていたバイク便のバイトを、卒業後の本業に決めた庄治は就職活動の必要もなく、落ち着いていた。
 その落ち着きが、思うように就職活動がはかどらない麻衣子の勘にさわり、イライラさせる。
 その麻衣子のイライラが庄治の逆鱗に触れる。

 就職難と言われ始めてどれだけ経ってると思うんだよ、早い奴は3年になった時点で動いてるし、より確実に就職決めるために在学中に手に技術つけたり資格取るくらい皆やってるだろ、この土壇場に来るまで何も考えずに学校が与える課題だけやってた麻衣子自身の責任じゃないか。

――わかってる、そんなの。。。

 庄治の言う事は、正しい。希望の大学に入れただけで浮かれて、その先も順調だと思い込んで何もせずにいた自分が悪い。
――だけど、私が言って欲しかったのは、そんな正論じゃない。。。
 甘えているのは解っている。しかしそれを受け止めて欲しかった。
――そりゃ、庄治だって勉強とバイトと、忙しいのは解ってるけどさ。。。

「それ、お姉さんの恋人?」
 ふいに背後から声が聞こえて、慌てて振り返る。
 いつの間にか石段に座り込み、考え事を口にしていたらしい。
 振り返ると麻衣子のすぐ後ろに小学生くらいの男の子が立っていた。
「うわっ。。。い、いつの間に。。。」
「お姉さん、僕が近づいたんも気付かんかったん?」
 少年が呆れて笑う。
「すごく一生懸命に考え事してたんやね」
 人がすぐ背後まで来ていたことさえ気付かないくらい考え込んでいたのかと思うと、妙に気恥ずかしくて、真っ直ぐに見つめる少年から目をそらしてしまった。
「大人になるとね、いろいろあるのよ」
「うん。僕の父さんと母さんも時々すごく難しい顔して、僕が帰っても気付かない時あるよ。大人って大変だねぇ」
 腕を組み、したり顔でわかったような事を言う少年が妙に可笑しい。
 麻衣子は声を出して笑ってしまった。
――村の子、だよね。可笑しい子だなぁ
 その笑い声で更に気を許したのか、少年は麻衣子の腕を掴んで引っ張る。
「あのね、こっち。いい所教えてやるよ」
 戸惑いながらも、引っ張られるままについて行く。
 白い歯を見せて笑う少年には、どこか気が緩んでしまう魅力がある。

 背の高い壁に沿って周囲をぐるっと歩いて回ると、正面と正反対の所で壁は消え、代りに叢から低い垣根が現れた。
「大人って、やる事どっか抜けてるんだよね。表はきっちり封印しといて、裏はこんなんだもん」
 叢の中に細い獣道がある。
「僕、草むしりして道作ったんだよ」
 へへん、と少年が自慢気に笑う。
 大人びた言葉を口にして、マセた表情を見せるかと思うと、急に田舎の子供の顔になる。
――そういえば、あの子もこんな感じだったな。。。
 ふっと、忘れていた記憶が蘇る。
 随分随分昔、こんな笑顔でこんな口調で、いつも一緒に遊んだ子がいた。
「あの子って?」
「え?あれ?私、また口に。。。?あの子。。。あれ?あの子。。。」
 口篭もる麻衣子を不信そうに下から見上げる。
「ごめん、よく思い出せないや」
 とりあえず、笑って誤魔化す。
「ふぅん、ま、いいや。ほら、こっちこっち」
 誤魔化されたことよりも、自分の事の方が大事らしい。少年は垣根を越えて、中に入るよう促す。

 大きな大きな屋敷。かつてはさぞ立派だったことだろう。村の中で一番栄華を誇ったに違いない。
 今は見るも無残に、土壁は剥がれ、屋根はところどころ抜け、惨めな佇まいを見せているが。
 その屋敷の正面に出る。と、麻衣子は声を失った。
 見事なササユリの群生。むせ返る甘い香りの薄桃色の絨毯。
「ほら、すげーやろ!」
「うん。。。すごい。。。誰かが世話してるの?」
「誰もしてないさ!ってゆーか、村の誰もこんな花畑のこと知らないよ。ここは誰も来たがらないからなぁ」
「え?そうなの?誰も来たがらないって。。。何で?」
「さぁ、父さんも母さんも、じっちゃんたちも何にも教えてくれんけど」
「じゃぁ、これ、全部自然に。。。?」
「そうやないの?」

 正面の方に門が見える。恐らくその向こうがあの石段だろう。
 ご丁寧に、内側からも×印の板が打ち付けてある。
――そういえばさっきこの子、封印がどうとか言ってたな。。。
「ねぇ、さっき封印してって言ってたけど。。。」
「え?僕、そんな事言った?」
「言った?って。。。うん、言ったけど」
「言ったかなぁ、ま、そんな事いいから!」
――いいのかな。。。
 何だか、とても大事な事のような気もするが。。。
 百合の香りが麻衣子から考える力を奪ってゆく。
 疑問も悩みも全て奪ってゆく。

 気が付いた時は、屋敷に戻っていた。
 少年とあれから何を話したのか、どこをどう歩いて戻ってきたのか。
「麻衣子さん、何かあったんね?」
 この数日嫌味を言い続けてきたおばさんが、心配気に聞いてくる。
「いえ、特に何も。。。」
 何となく、あの屋敷の事は知られてはいけない気がして、とりあえず、滞り気味になっていた箸を持つ手を動かす。

 覚えているのは、たった一つ。最後に少年と交わした約束。

 明日も、また、ここで会おうね。

 少年と麻衣子の奇妙な逢瀬が始まった。
 毎日、昼用におにぎりを作り朝から夕方までたっぷり家から居なくなる麻衣子を、おばさん達は不信に思わなくもなかったが、ここに来てからずっと縁側に居座り続けた麻衣子の姿を見なくても済む、それだけでホッと胸をなでおろし、煩く訪ねることはしなかった。

 もう夏休みも終わる。
 だが、庭にササユリは変わりなく咲き続ける。
 もとより、野の花のことなど知識などない麻衣子のこと、その不自然な自然に気付くはずがない。
 それ以前に、本当なら感じるはずの幾つかの小さな疑問さえ、今は脳裏に浮かばない。
 考える、その力を百合の香りは日々奪ってゆく。
「最近麻衣子さん顔が柔らこうなったねぇ」
 朝出かけに、おばさんに言われて、ふふっと笑う姿はまるで風に吹かれる一輪のササユリ。

 その夕暮れ、ササユリの庭の隅に古井戸を見つけた。
「こんなのあったなんて、今まで全然気が付かなかった。。。」
 恐る恐る近づいてみる。蔦の絡まる暗くて深い井戸。
 暗い底を覗いてみる。
 どこまでもどこまでも深い深淵の闇。
 その先に、小さな、針の先ほどの小さな、白い、光。

 波が、麻衣子を襲った。
 遠い遠い記憶の波。





 暑い夏の日。毎年恒例の親戚一同が集まる時期。もうすぐ祭り。
 村中に町から誰それの親類と名乗る人で人口が増える。
 年々増える、知らない顔。
 盆踊りの輪が月明かりの下、影を作る。
 賑わう村の中心と裏腹に人気無く静まる村の奥。
 少女は、逃げていた。
 忙しくはためく浴衣の裾。赤い鼻緒が切れて片方脱げた草履。
 緩々にほどかれ始めた桃色の帯。
 日中村の子供と遊び回って知り尽くしているはずの村の、どこに逃げれば良いのか、助かるのか。
 闇雲にただひた走る。
 石の階段を駆け上る。その先はどんづまり、屋敷の庭。
 少女のほど良く焼けた細い腕を掴んだのは、今朝方、二件隣の親戚ですと、挨拶に来た男。
 遊び盛りの元気な子供。だが、大人の男の腕力の前では非力だ。

 熱い。痛い。苦しい。裂ける。。。声が出ない。
 太鼓に合わせて響く盆踊りのテープが遠くかすれてゆく。
 いつ、終わったのだろう。朦朧として何も考えられない。
 隣で、男の子が泣いている。
「ごめんなぁ、助けられんで、ごめんなぁ」
 男の姿は既にない。祭りの群れに戻ったか。
「和くん?」
「気ぃついたんか?痛いか?ごめんなぁ、助けられんで」
 少女と同じように親戚の家に遊びに来た子供の一人。
 同じ年頃で5〜6人の子供達は町から来た者同士、気が合って朝から晩まで群れて遊んだ、その中の一人。
「和くん。。。」
「麻衣ちゃん見かけたら、追いかけられとるんで、追ってきたんけんど。。。怖くてよう出てこれんかった。。。ごめんなぁ、今、手拭い濡らしてくるけん、待っとってなぁ」
 少女は8歳。自分に何が起こったのか、何をされたのか、知識程度はある。
――見られた。。。
 咄嗟に旋律が走る。
――ミラレタ。。。

イケナイ

コレハ イケナイ コトダ

ダレニモ シラレチャ イケナイ コトダ

 ずきん、ずきん、重く鈍い痛みを引きずって、井戸に向かう。
 少年が井戸水を汲んだ桶を、取ろうと井戸の中ほどに体半分乗り出している。
 少女が起き上がった気配に気付いて
「待っててね、今手拭い冷してあげるから」
 顔だけ振り向いたその瞬間、少女の手が少年の背中を押した。
 桶に伸ばされた手は大きく弧を描き、目標をそれて、ゆっくりと沈んでゆく。
「え?」
 少年には何が起こったのかわからない。
 叫び声も出なかった。
 ただ、ゆっくりと、夜より深い闇の底へ落ちていった。





「和。。。くん。。。?」
 井戸に触れた指先が小刻みに震え、動けない体から搾り出すように声を出す。
「やっと思い出してくれたんだね、麻衣ちゃん」
 背中に突き刺してくる、無邪気な声。
 冷たくひんやりとした小さな手が麻衣子の腰に絡む。
「僕、ずっと待ってたんだよ」
 腰から力が抜けてへたりこむと、懐かしい、だがあの頃よりずっと青白い少年の笑顔が目の前にくる。
「僕、ずっと、待ってたんだよ」
 瞳の奥に冷たい光。
「ご。。。ごめんなさい!ごめんなさい和くん!」
「何でごめんなさいなの?やっと僕たち会えたのに?」
 青白い顔がどんどん近づいて視界いっぱいに大きくなる。
「ごめんなさい。。。怖かったの。。。私、怖かったの。。。ごめ。。。」
 恐怖なのか、後悔なのか。声が震えて途切れる。



 あの日あの夜。
 浴衣も頭も泥だらけにして屋敷に戻り、帰る、今すぐ町に帰る、と泣き叫んだ少女に、大人達は「田んぼにでも落ちたか」と冷やかして笑ったが、菓子を与えても漫画を与えてもいつまでたっても機嫌の戻らない少女に閉口し「これはまた偉く懲りたもんだ」と翌朝早々に両親と共だって町に帰ってしまった。
 だから、少女は知らない。
 翌日から少年の行方不明で村に騒ぎが起こったことを。
 正確には、曾婆から両親に連絡が入り、二度三度と少年のことを問われたが
 一度は少年の両親が涙ながらに頭を下げて何か知ってたら教えて欲しいとやってきたが
「知らない」
 と最後まで無表情につっぱね続けたので、恐らく本当に何も知らないのだろうとそれ以上誰も何も訊ねることをしなかった。
 祭りの夜、誰かに追われていた少女の後を追っていたことを知る者は居なかった。

 そして少女は、全ての記憶を封じ込んだ。

「皆、ひどいんやもん。寂しくてちょっと誰かに話し掛けようてしたら、皆逃げるんやもん。この屋敷の人なんて、家ごと棄てて、門、あんなにして、居なくなっちゃうんやもん。」
 少年の行方不明が、村でどんな風に語り継がれたのか、容易に解る。
「でもね、麻衣ちゃんはいつか必ず来てくれるって信じてたんよ」
 瞳の奥の白い光が強くなる。
「だって、僕がここに居ること知ってるの、麻衣ちゃんだけなんやもんねぇ」



「今日は麻衣子さん、遅いねぇ」
「夏休みももう終わりやし、色々と名残惜しいんやろ」
 村を渡る風はすっかり秋の臭い。

 村の外れの石段の上、閉じられた門の奥、季節を過ぎてササユリが揺れる。

 少年と少女の夏休みも、季節を過ぎて、終わらない。



−−ササユリ(山百合)−−
本州中部地方以西、四国、九州に分布。
6〜7月頃に咲く、淡紅色の花と強い香りが特徴。
近年では減少傾向にあり、群生を見ることは難しいらしい。



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2003.2003.9.4