長い夏休み〜浩二〜 仕事の机の上には昨日の日付の新聞が一部。 資料室の奥の暗い片隅が浩二の唯一の居場所だった。 つい数ヶ月前までは営業で、ばりばりに、とまでは言えないにしても、それなりに会社に貢献できる成績は上げていたというのに。 ほんのちょっと会社の車で事故をして、ほんのちょっと入院していただけだというのに。 ――その事故だってオレが悪いんじゃなかったってのに。。。 部署が変わって、たいした仕事もなく、ぼんやりと新聞を一日かけて読むだけの日々。 正確には新聞の記事なんて読んじゃいない。目を通すだけ。頭の中には一文字だって入ってはいない。 ――あの時あの馬鹿な自転車が飛び出してなんてこなければ。。。信号だってこっちが青だったんだ。。。 一日一度は事故を恨まずにいられない。 斜め前の課長が席を立ち、自分の茶を淹れに行く。 ――営業では女子社員がマメに茶だのコーヒーだの淹れてくれてたってのに、ここじゃセルフサービスかよ。。。 大きく溜息を吐き、課長に倣って席を立つ。 給湯室の前に来ると、中から人の声がする。女子社員が数人中休みで噂話に興じているらしい。 「。。。で、××××。。。?」 「うん、そうそう。。。資料室の。。。」 「。。。の席でしょ?事故ってノイローゼ。。。」 資料室で事故でノイローゼ。 見事に一致する三つのキーワード。浩二の噂以外のナニモノでもない。 ――。。。ちっ!胸糞悪い! 茶を飲む気力も失せて手ぶらで資料室に戻る。 職場に戻ってからというもの、ずっとこの調子で、皆陰では噂をしながら、浩二本人に対しては冷たい無視を続ける。 相手の信号無視した飛び出しが悪いとはいえ、仮にも人身事故である上に、避けようとした拍子にガードレールに突っ込み、社の車を破損させ、ムチウチで入院。 更に取引先にはスッポカシ同然、一つの契約と信頼を失ったペナルティーは大きかった。 ――会社の厄介者、お払い箱にはお上怖くて関わってらんねぇってか! 面と向かって怒鳴ろうと叫ぼうと、もう誰も相手にしないのはこの数ヶ月で身に沁みて解ってしまっているので、口には出さず心の中で吐き棄てる。 ――畜生!あのガキはオレが避けてやったおかげでかすり傷で済んだってのに、オレは社会的抹殺寸前かよ。。。 職場の要営業から、亡霊でも出そうな薄暗い資料室への移動は、無言ながらも重圧かけて自主辞職をほのめかす。 ――誰が自分から辞めてなんかやるもんか。会社が頭下げて辞めてくれと頼みに来るまで居座ってやる。。。 自分から辞表を書いた方が退職金も良いのは解りきっていることなのだが、見当外れの意地がそれを認めない。 ――あぁ、もう今日は辞めだ! 乱暴に椅子を蹴飛ばす。 就業まではまだ二時間ほどあるのだが。 課長は一人きりになってしまった資料室で、激しく音を立てた椅子を眺めながら、鼻先で嘲るように「ふんっ」と笑った。 早退したものの、早く家に帰っても、良いことなど一つもない。 ぶらぶらと公園を散歩して時間をつぶす。 時折散歩中の犬が噛み付くように吠えかかる。 ――犬までオレを馬鹿にしやがる! 呟いて、まるで安っぽいテレビドラマのセリフを言ってしまったようで、気恥ずかしくなり、足早にその場所を立ち去る。 パチンコや喫茶店に入ろうにも、財布の中身が心もとない。 今や家族を養っているのは、浩二の収入ではなく、保険外交で走り回る、妻、昌美なのだ。 『相手の信号無視も悪いけどあなただってもっと気をつけるべきだったわよ』 事故と聞いて駆けつけたものの、相手が軽症で済んだことですっかり気が抜けた昌美は浩二の失態を逆に責めた。 『あんな公園出口の細い通りの横断歩道、いくら信号があるとは言ったって、子供の飛び出しくらい予想つくでしょうに』 その後の相手方との交渉は、仕事で鍛えた敏腕さで、落ち度なくスムーズに、双方とも納得して終わるよう、昌美が全てやってのけた。 ――オレだって、病院で首さえ吊ってなければ。。。 父親がムチウチで情けなく入院している間に事故の後始末と仕事に颯爽と走り回る母を見て、十歳になった一人息子、祐司の態度も変わり始める。 退院した後はことさら、父のガクッと下がった収入分を穴埋めすべく仕事に精出す母を、今まで以上に慕う祐司。 これも浩二には胸糞悪い。 夕方をとうに過ぎ、十分に陽も落ちきった頃、ようやく家に帰る決心がつく。 結婚してからずっと住んでいるこ洒落たアパート。風を入れるために少し開いたドアからカレーの匂いが漂う。 ――今夜はカレーか。。。 昨日はチャーハンだった。その前は肉屋が生地を練った、焼くだけで良いというハンバーグ。その前は。。。 子供だましなメニューにうんざりしてこないでもないが、仕事で疲れて帰る母親のために祐司が作る食事なのでしかたがない。 ――それにしても、たまには魚の煮付けや旨煮が食いたいもんだ。 口には出さない。それもこれも全て自分の事故が原因なのだから。 ただいま、と言いダイニングを覗く。 キッチンに出来上がったカレーを置き、テーブルで漫画を読みながら母の帰りを待つ祐司がいる。 おお、美味そうだなぁ、ご機嫌取りの混ざった大げさなくらいの大きな声をはりあげるが、反応はない。 入院している間にどんな愚痴を母親から聞かされたものか想像がつく。 退院してからというもの、祐司は父親をすっかり無視し続けてしまっているのだ。 しかし、この程度で声を荒げていては大人げないだろう。気を取り直してもう一度祐司に声をかける。 祐司もすっかり料理上手だなぁ。将来はシェフになれるんじゃないか? 祐司の視線は漫画から離れない。 どれ、父さんに食わせてくれないか? ようやく顔が上がった。 しかし、その目が捉えたのは、浩二ではなく、その後ろで聞こえたドアの開く音だった。 「母さん、お帰り。カレーできてるよ」 「あぁ、ありがと。ただいま。あぁ疲れたぁ」 「風呂も入ってるから」 「はいはい、ありがとね。あらまた漫画なの?宿題は?」 宿題は?息子の頭を撫でながら訊ねるその語尾は詰問するものではなく、穏やかで優しい。 「宿題なんて学校でやっちゃったよ」 出された宿題は授業が終わってすぐの休み時間にさっさと片付けてしまうらしい。 「そっかーやるなぁ」 昌美がテーブルにつくと、いそいそとカレーをよそって運んでくる。その態度は浩二へのものとは偉い違いだ。 そういえば昌美も浩二に対して一瞥もない。まるで帰っているのに気が付いていないように振舞う。 お前たちそんなにオレが邪魔なのか! 浩二は席を立ち椅子を蹴飛ばす。 祐司が初めて、ちらっと浩二の席に目をやる。が、すぐにカレーをすくった自分の匙に目を戻す。 昌美も、会話を中断させてもくもくと匙を口に運ぶ。 苛々と奥の部屋へ浩二が引っ込んで、静かになっただろう時間を見計らって、祐司は小声で 「ねぇ、お母さん、今年もまた、なのかなぁ」 「そうね、今年もまた、なのね。きっと」 表情も変えずに昌美は答える。 つい先ほどまで明るく会話のはずんでいたダイニングで、空気が暗く重くなる。 空になった皿を片付けようとする祐司の手をさえぎって 「いいから。後はお母さんがするから祐司はお風呂先に入って、部屋に行って学校の準備して、もう寝ちゃいなさい」 「うん。。。」 小さく頷いて後片付けを交代する。 二人分の食器を流しに置いて洗い始める昌美の後姿に、ちょっとだけ振り返る。 「お母さん。。。」 「なぁに?」 言いたいことは、ある。労いたい気持ちが、ある。しかし上手に言葉にできない。今夜は。 「。。。。。おやすみ」 少しためらって、一言だけ昌美の背中に伝えて風呂場に消える。 ダイニングから祐司の気配が消えるのを背中で感じながら、食器を洗った洗剤の泡を流し水切りに置き、 ――ふぅ。。。 小さく溜息をつく。 すぐにその場を動かず、野菜の皮を剥いたり、長時間台所で何かする用に祐司が気を利かせて置いた、細く丸いカウンター用の椅子に座る。 背中を丸くして足に肘をつき、頬杖をついて 「今年も、なのね」 今度は深い溜息といっしょに呟く。 ようやく思い立って、奥の間の襖に手をやる。息を呑んで、ゆっくりと開く。 天井から電灯を下げるためにつながれた太いコードに、もう一本の紐。 その紐の下に、首を吊ってぶらさがる、浩二。 垂れ流しの汚物が足をつたって、ぴちゃんぴちゃんと音を立てながら畳に溜りを作っている。 何度見ても、慣れることはできないこの光景。 「あなた。。。浩二さん。。。」 昌美は目をそむけて掌で口を覆った。 「あなたがこの部屋でこうやって死んでから、もう五年経つのよ。。。なのに、毎年、毎年、あなたはこうやって繰り返し。。。」 涙が一筋、頬をつたう。 「忘れるなと、いうの?それとも、いったい、どんな未練があるというの?」 日に焼けて黄ばんだ襖に身体をもたれさせ、揺れる死体に問い掛ける。 「私も悪かったわ。。。事故を起こしたあなたを責めた。。。会社に戻っても一人の味方もいなかった、あなたを孤独に追い込んだ。。。」 その間、五分もあっただろうか。 浩二はやがてうっすらと透けてゆき、静かに消えていった。揺れながら。 畳に垂れた汚物の溜りも、同じくして消えていった。何かに、何処かに、吸い込まれるように。 「何故?あなた。。。あの時責めた私を、皆を、許せない?だから。。。なの。。。?」 隣の部屋で、声を押し殺して泣く、祐司の嗚咽が小さく響いてくる。 「ねぇ、あの、資料室の。。。」 「そうそう、出るんだってね。五年前、かな?事故って自殺しちゃった人」 「ノイローゼだったんですって?」 「資料室の課長が時々その人の机や椅子がガタガタ言うのを聞くんだって」 「でも資料室って、怪我が治って落ち着くまでの一時措置だったんでしょう?」 「夏休みみたいなもんじゃないのねぇ」 「だから、ノイローゼなんだってば」 − Top− −Novel Top− 2003.9.15 |