三つのお願い 〜3〜






 誰か気付いて助けてくれないか、目を開いて周囲を探す。首が思うように動かない。
 親戚達は酔いつぶれて眠ってしまっているのか、あちこちで鼾が響く。唯一の頼みの綱の祖父母も今日一日で疲れきったのか、ちょっとやそっとの物音では目を覚ましてくれそうにない。 ここに来て初めて恭子は自分の両親の徳の無さを痛感した。皆血の繋がった姉兄だと言うのに死んで口にされるのは悔やみの言葉ではなくお金のことばかり。 しょうがない。恭子は思った。
 父の事はともかく、羽振りの良い暮らしにすっかりいい気になっていた妙子は、普段はまるで縁を切ったかのような疎遠ぶりなのに自分の困った時だけ姉よ兄よと言い寄ってくる。そんな末っ子の態度に辟易して面倒見の良い昌子以外誰も相手にしなくなっていた。
 その昌子にしても本音は、妙子が愚痴を言いに来る度に心の底で舌を出し「ざまぁみろ金はあっても家庭が壊れてちゃ意味ないわ」と妙子を見下し優越感に浸っていた。 葬式で泣いてくれるのが年老いた両親だけなのはしょうがない。これが母の業なのだ。
――でも……
 ショーツの中で指が狭く硬い入り口を見つけて無理やり押し入ってこようとするのを感じて、恭子は迷いを振り切り思い切り口の中を占領する計一の舌を噛んだ。
――お母さんが死んだことでわたしがこんな目に合うのは我慢できない!
 舌を噛みちぎられそうになって計一は全身を痙攣させのたうちまわる。その隙に恭子は体をよじり計一の腕の中から逃げ出した。
 ごろごろと鮪のように横たわる親戚の間をぬって這いずりながら扉に向かう。一度だけ後ろを振り向くと計一の恨めしそうなぎらぎら光る目が怖くて、腰の抜けそうになるのを踏ん張って立ち上がり靴をつま先に引っ掛け外に駆け出した。 痛みに転がる計一の異様な物音にようやく気が付いて昌子が目を覚まし事態を察知して恭子の姿を探すけれど時遅く闇の向こうに消えた後だった。が、昌子は慌てない。
「まぁいいわ……どうせあの子が行ける所なんて自分の家しかないでしょう。もう電車もない時間だしお金も持ってないだろうし……」
 先走った行動に出て逆にしてやられた計一を見て口の端に勝ち誇った笑みを浮かべた。

 昌子の思った通りに、恭子は自宅の前に来ていた。
 警察の張った黄色い立ち入り禁止のテープ。明日には剥されるテープの間をくぐって門の中に入っていく。自宅の鍵を開け暗い家の中に入る。
 まだ消えていない階段下の白い人型の線。 産まれた時から住んでいる家の中は電気をつけなくても窓から入る街灯の明かりだけで十分歩き回れる。 リビングのソファにちょこんと座り震える肩を自分の腕で抱きしめながら大きく伸びをして深呼吸する。ようやく落ち着いて正面を向くと、対面式のキッチンが薄明るい中ぼんやりと光って見えた。つい一週間ほど前まではいつもそこに立っていた母親は祭儀場の立派な桐箱の中で眠っているのだろう。
 昌子達姉兄にしてみれば確かに良い妹ではなかっただろう。それでも父親不在に近いこの家の中で恭子にとっては唯一の母親だった。
「お母さん……」
 計一に悪戯をされながら「お母さんが死んだせいで自分がこんな目に会っている」そう思ってしまった事を後悔し始める。
「お母さん……ごめん……」
――今にして思えばここで私達は二人きりの家族だったのに……
『離婚したらお母さんがあんたを引き取るから、一緒におばあちゃんの家に戻っていろいろ頑張ってやり直さないとね』
 田舎に行く前夜、妙に開き直って笑う母の顔を思い出す。
「そうだ!」
 頭の中で何かが閃いた。
 あの茸。
 願い事を唱えながら口にしたその次の日に両親は死んでしまったけれどそのおかげで大金が舞い込んでくる事になった。偶然だろうけれど、もしも、万が一、あの茸が『本物』だったら……
 恭子は階段を駆け上がり自分の部屋に飛び込む。ベッドの上には制服に着替えた時放り投げたそのままのジャンバースカート。そのスカートのポケットに手を突っ込み、ハンカチの包みを取り出す。
「落ち着いて、落ち着いて」
 もう一度大きく深呼吸をしてから包みを開くと、しなびはじめて色が茶色から青黒くってしまっている二本の茸。
 これを使えば、もしもこれが本物だったなら、お母さんは……ありえない御伽噺に胸が高鳴る。どきどきしながら一本を口の中に放り込み唾液と一緒に噛まずに飲み込む。
「お願い、お母さんを生き返らせて……」
 目を閉じて両手を胸の前で組み強く願う。時計の針が部屋の中でこだまするように大きく響く。
 一分……二分……十分……三十分……
 また涙があふれてくる。やっぱり一本目の願いは本当の偶然だったのだ。
 それでも、自分があんな願い事を唱えたせいで母親が死んだような気がして諦めがつかない。もう一度試してみようか?最後の一本にそろりと手を伸ばした時、玄関で物音がした。  家の前に、確かな人の気配。その人は玄関の前で一度立ち止まり、どんどんと叩き始めた。
「誰!?」
 部屋を出てまた、階段を下りる。階段を使う度両親の跡の白い線をまたぐのはかなり嫌な感じがして、眉間に皺を寄せながらその線をまたぎ玄関に向かう。深夜の来客は玄関を叩きつづける。
 ドアスコープに顔を近づけ覗いてみると、信じられない光景がそこにあった。
「お母さん!」
 懐かしい白い顔がドアを叩きつづけている。
「……きょうこ……」
「お母さん!」
 やっぱりあの茸は本物だったのだ。御伽噺は実現したのだ。恭子ははやる心のままにノブを回しドアを開ける。
「おかあさん!」
 繰り返し叫びながら母親を迎え入れようとした。が、面と向かってその姿を見て母親の姿が異様な雰囲気に包まれていることに気が付いた。
 両手をいっぱいに広げて抱きつこうとした母の姿は、元々色白というよりもすぅっと青くぎこちなく冷たい。どこを見ているのかわからない虚ろな白い目。そして何より記憶に新しい、警察病院から棺に入って戻ってきたそのままの白い着物。
 風に揺れて乱れた胸元から、大きな傷をただ中身が見えなければそれで良しというように雑に縫った跡。
「……きょ……うこ……」
 底の見えない井戸から立ち上ってくるような不快な声。
 その形相を表現するなら、たった一言「生気がない」それで十分だった。
 恭子は声にならない叫びを上げてもう一度玄関を閉める。何度も転びながら自分の部屋に戻る。階段下の白い線を意識する余裕はもうない。
 部屋に戻るとドアを閉めて閉じ篭った。そのドアの向こうから玄関の開く音がする。慌てていたのできちんと閉まっていなかったらしい。
 ひたひたと何かが歩いてくる音がする。それはゆっくりと階段を上り始めた。
「アレは何?アレは何?」
 頭を抱えて繰り返す。少なくとも自分が望んだ母親の姿ではない。ではアレは?
「そういえば……」
 小学生の頃学校の図書館で読んだ本を思い出した。確かどこか外国の怪談だった。 高く掲げて願いを唱えれば三度までその願いが叶うという『猿の手』を手に入れた夫婦がまず最初に願ったのは「お金」だった。そしてそれは最愛の一人息子の死による職場からの見舞金という形で叶えられた。二人はこんなはずではなかったと、もう一度猿の手を掲げ二つ目の願い事を唱えた。「息子を生き返らせてくれ」と。願いは叶えられ、嵐の夜息子は墓場から生き返った。工場で機械に挟まれたぐしゃぐしゃのままの姿で家に戻ってきて戸を叩く姿を見て両親は最後の願いを決意した。
「あれは……あの話は確か……」
「これって、あの話とまったく一緒?」
 当時その本を読んだ時、恭子は友達とその両親をばかにして笑ったのを思い出す。宝くじが当たったわけでもないのにそんな大金が簡単に手に入るわけないじゃないねぇ、と両親のとった行動を罵った。
――ごめんね、お母さん、わたしあの本とまったく同じ。わたしが何も考えなしにお願いなんか唱えちゃったから――
 ひたひたと近づいて来る足音に耳を澄ませる。一段一段近づいて来る。
――願い……あの本と同じなのなら……最後の願いを唱えなければいけない。四つん這いでベッドに近寄りハンカチを探す。これだ。この最後の茸で……
 しかしそこに茸は無かった。
「ない?何で?さっきまであったのに!」
 ドアをノックする音が聞こえた。もう目の前に母親の死体が来ている。
 どこに落とした?ベッド下?あふれてくる涙で顔中をくしゃくしゃにして床に這いつくばって探す。
「どこ?最後の茸、どこ?」
 ドアが開いた。

 白い狭い病室。隅に置かれたベッド。それに背をもたれさせ恭子は虚ろな目を空に放つ。
「恭子ちゃん、元に戻ればいいけど」
 昌子がドアの覗き窓から病室の中をじっと見守る。
 夜中家に帰ってしまっただろう恭子を、それでもあんな事があった家の中で一人にしてはおけないと迎えに行った。電源を切ってしまっていたのでならないチャイムの代りに玄関を叩いていると威勢良く玄関を開けた恭子は自分を見て「お母さん」と叫んだ。そして逃げ始めた。部屋まで上がってドアを開けるとそこには半狂乱になって床を這う恭子がいた。
「あれは一体……?」
 昌子には恭子の奇行の意味がさっぱりわからず頭を抱えてしまう。
 そこに最初事情聴取にやってきた刑事が白衣を来た青年と一緒に現れた。
「お嬢さんは、どんなもんでしょうかねぇ」
 訊ねる刑事に昌子は言葉もなくただ首を横に振る。代りに白衣の青年がカルテを片手に答える。
「血中から幻覚作用のある成分が検出されていますから、その成分が抜けてしまえば元に戻るとは思うのですが」
「今時の子供はねぇ」
 ふぅっと刑事が溜息をついた。
「あぁ、マリファナとかそういう類ではないようですよ」
「と、言いますと?」
「彼女が茸茸と呟くのでその方面の研究をしている人に調べてもらったのですが……」
「茸?」
「ええ。日本国内にも幻覚作用のある茸があるんですね。彼女から検出されたものとその茸の成分が同じなのでおそらくそれが原因でしょう」
「マジックマッシュルームとか言うやつですね」
「まぁ……そんなところでしょうねぇ……ただ……」
 青年医は言葉を濁した。
「ただ?」
「彼女の場合幻覚作用に加えて随分な大きな精神的ショックがありますからねぇ幻覚成分が抜けてもきちんと正気に戻れるかどうか……」
「困るな……」
 刑事と青年医のやりとりを上の空で聞きながら、ずっと部屋の様子を見ていた昌子がやっと口を開く。
「やっぱり、あの子なんですか?」
 刑事が重く答える。
「妙子さんと雄一さんが亡くなった日の深夜、駅でお嬢さんを見かけたと駅員が証言してくれましたよ。次の日の早朝も始発に乗ったのが確認取れました。そんな時間に子供が、と駅員がはっきり顔を覚えてましたよ」
 具体的に家の中でどのような惨劇が起こったのかは恭子の証言を聞かないと解らないが、包丁についた指紋を拭いたと思われる血のついたハンカチが田舎の家に置いてあった恭子の荷物から出てきたので、重要人物であることに間違いはないです。と刑事は説明した。
「あの子、罪に問われるようなことに?」
「どうでしょうなぁ未成年ですし……ご両親を刺したのがお嬢さんだとしても薬物使用による錯乱状態と判断されますし……いずれにせよ、お嬢さんの完治を待って話を聞かないことには……」
 昌子は大きく溜息をついた。
「そういえばご両親、妙子さん方の葬式が終わってすぐ田舎に戻られたそうで?」
 思い出したように刑事が聞く。
「えぇ。何でも田舎の方で痴呆の進んでいた旧知の方が亡くなられたとかで」
「それは災難で」
「まったく、あちらでもこちらでもお葬式だなんて。あちらはもう十分お年よりでしたから大往生でしょうけど、こちらはねぇ……」
 もう一度昌子は窓を覗いてハンカチを目尻に当てた。
 その窓の向こうで恭子は床にうずくまってぶつぶつと呟いていた。
――茸……茸……茸……


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2004.3.21