三つのお願い 〜2〜






 居間では祖父が酒を飲みながらテレビを見ている。その隣で祖母はお茶を飲みながら繕い物をしている。二人とも恭子の食欲に安心したのか、日が暮れても戻ってこなかった時の心配気な表情は無くのんびりしている。
 同じ屋根の下の風呂場で恭子が願っている言葉は聞こえない。
「お金を頂戴!お金がわたしの一つ目の願いよ。あの両親から自立して生きていけるお金を頂戴!」
 目を閉じて茸を口の中に投げ入れる。意を決して飲み込む。噛まずに飲み込んだそれはにゅるりと喉を滑り落ちて行った。
 喉の奥で固形物が通り過ぎた感触はなかなか消えなかった。
 恭子は鼻のすぐ下まで湯に浸かりその感触が薄れてゆくのを待った。少し風呂の湯を飲んでしまったかもしれない。しばらくして暖められた喉はすっかり異物感を消化することができると、ようやく恭子は我に返った。
「……ふふ……」
 可笑しさがこみ上げてくる。
「ばっかじゃない?わたし。そんなことあるわけないじゃないねぇ」
 緊張が一気にほぐれて頭がくらくらする。
「ふぇ……のぼせちゃったな……疲れたぁ。もう今日は体洗うの、いいや……」
 ほてった体を湯ぶねから引きずるように出して脱衣所に出る。小さな網戸から入ってくる風が気持ちいい。パジャマに着替えて居間に戻ると隣の部屋ですっかり酔っ払って眠っている祖父に祖母がタオルケットをかけている所だった。
――ほぉら、何にも変わってなんかない。やっぱりあんな茸うそっぱち。
 いつもと変わらない夜。穏やかな年寄り夫婦の夜更け。 きっと家でもいつもと変わらず両親はいがみ合っているか、もしくは、帰らない夫をイライラと悪態つきながらリビングでワインでも飲みながらあの母親は待っているのだ。
「私ら年寄りは先に横んなるけん恭子ちゃんもテレビ飽きたら適当に寝なぁねぇ」
「うん。ちょこっと宿題やってから寝るわ。おやすみ、ばぁちゃん」
 夏の宿題ノートを取り出しシャーペンを握る。とはいえ、殆どのページはノートを貰った時点で片付けてしまっているので手をつける所はもうあまりない。
「後は自由研究と家庭科かぁ」
 家庭科は祖母が手伝ってくれてブラウスが一枚仕上がりつつある。自由研究も星の観察で簡単に手を打つつもりだ。
「こんな宿題マジメにやったところで提出できるかどうかもわかんないのにね」
 シャーペンを指先でくるくる回しながら自嘲気味に笑う。
 夏休み中に離婚が決まってしまって母親に引き取られることになればこの田舎に一緒に引っ越して来て、新学期からはこっちの中学に編入することになる。幼稚園の頃からずっと一緒だった幼馴染たちともお別れだ。
 父親はおそらく新しい恋人と新しい家庭を築くだろうからそちらに引き取られる可能性はまず無いだろう。
「確か同じ年の子が村に居たなぁ。学校の話とか聞いといた方がいいかなぁ」
 考えながらぼんやりと時計を見るとまだ八時だった。
「寝るには……早い……なぁ……」

 いつの間に眠ってしまったのか、無意識にきちんと二階の部屋へ行き布団に入っていたらしい。
 階下から聞こえた電話の鳴る小さな音で目が覚めた。
「え?」
 時計を見てびっくりした。
「十時?かなり早く寝たはずなのに?こんなに?」
 慌てて着替えて階段を下りる。寝過ごした事をからかわれるのは気にも留めないが、体調でも悪いのかと心配されるのは困る。それでなくても両親のせいで気苦労が多いだろう年寄り夫婦にこれ以上無用な心配はかけたくなかった。
「おはよう!わたし寝過ごしちゃって……」
 恭子が居間に飛び込むとそこにはこれまで見たことのないような神妙な面持ちで向かい合って受話器を握り締める祖父母がいた。
「恭子ちゃん……今、昌子から電話が……」
 恭子に気がついた祖母がわっと泣き崩れた。
「妙子が……あんたのお母さんが……雄一さんも……」
「お母さんと雄一って、お父さん?お母さんとお父さんがどうしたの?」
 受話器を差し出して小さな声で搾り出すように祖父が答えた。
「さっきほど家の中で亡くなってるんが見つかったそうな……」
 奪い取った受話器の向こうは母の姉、恭子には叔母にあたる人だった。
 かねてから妙子に離婚を勧めていた昌子がようやく決心した妹に弁護士を紹介するため今日家を訪ねる約束をしていたのだが、何度玄関チャイムを鳴らしても出てこない。今日この時間に自分が来ることをわかっていて留守にするような妹ではない。また家の中で喧嘩にでもなっているのか、体調でも崩したのか、何気にドアノブを握るとそれはするりと回った。
 鍵がかかっていない。まぁいいわ、と靴を脱いで上がりリビングに入ると、その奥の階段下で二人が折り重なるように倒れているのが見えた。おびただしい血の海の中で。
 慌てて警察を呼び今現場検証をしているところなのだと昌子は説明した。
「とにかくすぐ次の電車で行こう。恭子ちゃんも一緒に帰るんよ。わしら一緒に行くけん、とにかく急ごう」
 祖父が泣きじゃくる祖母の背中をさすりながら恭子に言った。

 見慣れた階段の下は赤黒く汚れ白い人形の線が引かれていた。両親は既に警察病院に引き取られ観察に回されたとかでそこには無かった。
 死亡時刻は深夜十二時から二時頃の間。武器に使われたらしい包丁には両親の指紋しかなく、言い争いが過激に進展してしまったということで決着が付きそうだと、警察の話を盗み聞きした昌子が話した。
「お嬢さんは夏休みに入ってからずっと妙子さんのご実家にいらっしゃったんですよね」
 血の匂いの消えないリビングで刑事の一人が恭子と祖父母に話しを聞きに来た。声を失ったようにただ立ち尽くす恭子に代わって祖父がそれに答える。
「ええ。終業式終わってからすぐうちに来たんですわ」
「夕べも変わりなく?」
「えぇもう何も変わりなかったですよ」
 そうですか、いえ、一応形式だけのもんですんで、と刑事は頷きながら恭子に向かい小さく敬礼して「悪かったね」と声をかけ現場に戻った。
 一日がかりで行われた現場検証の脇で昌子が長女らしい手際良さを発揮して兄弟姉妹に連絡を取り、すぐに来れる人間にはこの家に泊まるのも何だからと近くのホテルを手配していた。
「恭子ちゃんも母さん達もホテル取ったから今日はそっちに泊まり?な?」
 言われるがままにホテルへ向かう。恭子は今朝の電話から一言も話さない。食事も喉を通らずこの日口にしたのは少しばかりの麦茶だけだった。

 両親の遺体が戻ってきたのは翌日の夕方。警察の説明ではリビングでもみあっているうちに母親が包丁を持ち出し、二階に逃げた父親を階段の上で一度刺したもののそのまま突き飛ばされて首の骨を折り死亡し、父親もそのままよろけて階段を転げ落ち動けなくなり出血多量で死亡したらしいということだった。
 遺体は血も拭き取られきれいな姿で返ってきた。恭子は制服に、祖父母達は喪服に着替えて場所を葬式の会場になっているビルに移動し、そのまま通夜を迎えることになった。
 親戚一同が集まるのは七〜八年ぶりだとかで両親を失って沈む恭子の心情をよそに通夜の名を借りた宴会が始まる。
「そういえば雄一さんの保険金って幾らぐらいなんだ?」
 ふと親戚の中の誰かが口にした。
「中小企業とはいえ重役やってるくらいなんですからそりゃ大きいでしょう」
 昌子が物知り顔で言う。実際、死んだ妙子はことある事にこの姉に相談していたので家の内情には恭子以上に詳しい。
「会社の株も持ってたって言うからね。まぁ億は行かないにしてもそれくらいは……」
「あんたたち、何不謹慎な話しよるんね!まぁ恭子ちゃんの気持ちも考えんと……」
 さすがに祖母が怒って叫んだ。
「そうやけど妙子ちゃんが死んでもうた以上誰かが恭子ちゃんの面倒見ないけんのやから、これは大事な話やわお母さん」
 昌子の夫もそうだと言わんばかりに頷き恭子の肩に手を置く。
「なぁ?恭子ちゃんもこれからの事考えなあかんやろ?」
 相変わらず恭子の口は貝のまま開かない。ずっとうつむいたまま瞳も何も見えてはいないように下だけを向いている。
「恭子ちゃん一人大学出ても余るくらいのお金が入るんよ?こんな子供にそんな額管理できんやろうし何よりも変な人に騙されたりする前にこういう事はきちんとしておかんと」
「何あんた達だけで勝手に話を進めとるんや!」
 怒鳴ったのは父、雄一の兄だった。雄一の両親は既に他界しているので、唯一の兄である省吾とその家族が来ていた。
「そうは言いましてもね妙子と恭子ちゃんは雄一さんに散々辛い思いさせられたんですから、遺産に関する権利は恭子ちゃんにあるんですからね」
 昌子と省吾の間で言い合いが始まった。遺産の権利を持つ恭子を誰が引き取るのか、二つの棺は隅っこでバツが悪そうに黙って聞いている。
 その中で一人恭子は一見両親を失った不幸な少女の殻をかぶって、他の誰とも違うことを考えていた。
――保険?遺産?お金?
 夕べ風呂の中で口にした自分の願い。
――あの茸……まさか?ううん、そんなことあるはず……だってまさかこんな形で……
 しかしこのままだと恭子は確実に遺産を手にする。一生とはいかないまでも大学を出て就職し自分で稼いで生活できるようになるまでは。
――確かに何も煩わしいことなんかなく自立できる……?
 若干の障害はあるようだが。口論で熱くなっている二人を横目でちらりと見る。
 呆れて祖父母が恭子の手を取り部屋の外へ連れ出した。
「明日のお葬式に備えて、今日はちゃんと寝とかないけん。恭子ちゃんもしんどいやろうけど、お葬式終わるまで気張りぃよ」
 祖母の優しい口調に思わず涙があふれてきた。
「とりあえず……お茶でも飲んで」
 恭子の涙に慌てて、祖父が傍にあった自動販売機で缶の緑茶を買って手渡した。

 深夜、恭子は異様な気配で目が覚めた。
 何かが重くのしかかってくる。首筋に荒い息がかかる。
――誰!?
 声が出ない。体が動かない。背中に冷たい汗が流れる。手のひらがじっとりと濡れてくる。指一本も自由にならない。
 ごつごつした手がスカートの中をまさぐってくる。
――気持ち悪い……
 かかる息がタバコ臭い。
 どれだけ長い間触られ続けていたのか、よく解らない。とてつもなく長かったような気がする。
 ようやく落ち着き目を薄く開いてみる。
「ひっ」
 口の端から息が漏れた。目の前に顔があった。この顔は覚えている。さっきまで昌子と言い争っていた省吾の、この春大学を出て社会人になったばかりの一人息子だ。確か計一という名前だったはず。ずっと父親の後ろで舐めるように恭子を見ていた蛇のような目つき。
「じっとしてろよ、声を出すなよ」
 低い声が脅すように耳元で囁く。指が薄いショーツの中に忍び込んでくる。
「何で……?」
 恭子は目に溜まった涙がぽろぽろとこぼれて来ているのが頬を伝う感触でわかった。
「お前が大人しくうちに来ればいいんだけどな、あのオバさんが大人しく譲ってくれそうにねぇしよ」
 小さな声で囁きながらしかし指を動かすことを止めない。
「だからお前からうちに来るように言ってくれれば一番てっとり早いんだよなぁ」
「だからって何でこんなこと……」
「こんなこと、誰にも知られたくないだろ?中学生のくせにこんな恥ずかしいことされちまってんのが知れたらどうする?」
 耳元で動いていた唇が顔の正面にやってきて無理やり恭子の唇に重なってきた。
「今まで通り普通に中学生やっていたかったら大人しく言うこと聞けよ?でないと、両親の通夜の最中に男とヤっちまってましたって学校にも友達にも言いふらしてやるぜ?」
 ぬめった舌が歯の間をすり抜けて入ってくる。下の方ではせわしなく指が何かを探して蠢く。
――嫌……気持ち悪い……
 喉の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。口の中で無遠慮な男の舌がねちねちと音を立てて動きまわる。
――嫌……


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2004.3.23