三つのお願い 〜1〜






 中学生になって最初の夏休みが始まっていた。恭子と同じクラスの友達は皆部活だったり旅行だったりしている頃。
「わたし一人、何でこんな所にいるんだろう……」
 答えの解りきっている自問自答も頭の中で何度繰り返されたことか、もうわからない。
「あーあ、友達と遊びに行く約束してたのになぁ」
 ふてくされるように草むらで横たわり目を閉じると、眼下に波打つ小さな湾で小さな船のぽんぽんという音が響く。青いデニムのジャンバースカートと白いTシャツは既に草まみれ。
 両親は電車で2時間先にある街中の自宅で、きっと夕べも争ったのだろう。
 この半年、両親の間で繰り返されたその争いのきっかけは父親が会社の若い女性と恋に落ちたとか落ちなかったとかそんな話で、それも結婚式の直後から既に何度目だかの恋なので恭子にしてみれば「今さら」な話ではあるのだが、とうとう母親の堪忍袋は破け散ったらしい。
「今まで散々好き勝手されておいて、何で今さら離婚なのかなぁ」
 今さらと言えば今さらなことはまだ他にもある。
 物心つく頃から両親の諍い現場は何度となく見てきた。いや、両親の諍いの中で育ったと言った方が正しいだろう。
 それなのになぜ離婚話が現実味をおびてきた途端、子供に聞かせられる話じゃないからとこんな田舎に一人放り出されなければならないのか。恭子はとにかくそれが癪に障る。
「本当に離婚するんだったら、わたしだって当事者だのにねぇ」
 とはいえ正直、別れるだの慰謝料だの、しまいには十年以上も昔の女性の話だのが出て来て堂々巡りになってしまう二人のなじりあいにいい加減うんざりもしていたので、その声の届かない田舎に一人追いやられたのは決して嫌なことでもない。
 うっかり目を閉じていると眠ってしまいそうになる。実家のある街中と違ってこの田舎は風が気持ち良い。汗ばむ季節だというのに海から運ばれる風は涼しくて心地良く、花の季節を終え辺り一面を緑に染める蜜柑の青臭い香を含んだ山の風と混ざって胸の中にじんわりと甘く広がる。恭子はこの香が嫌いじゃなかった。子供の頃から夏休みの度に遊びに来ている母方の実家。この草むらで横たわっていると、つい先週まで自分があの殺伐とした家庭の中にいたなんて信じられなくなる。
 脱色をして学校で先生に怒られる短い茶色い髪も、色の薄い白い肌もみんな緑に染まるような錯覚。
……気持ちいい……
 このままここで溶けてしまってこの草むらの一つになってしまえばいいのに。自分の血も肉も細胞もみんな、ここの土の栄養になって、どこか遠くから飛んできた種を受け止め小さな花を咲かせることができたらいいのに。
「ふふ……」
 普段なら思いつきもしない少女趣味なことを考えてしまって、誰が聞いているわけでもないのだが思わず照れ笑いがこぼれる。
 誰も聞いていないはずだった。草を踏む足音一つ聞こえてはいなかった。
 その老人は短い白髪を揺らしながらいきなり恭子の目の前に顔を近づけてきた。
「だ……だ……だ……」
 驚きのあまり言葉が出ない。飛び起きて退く恭子を愉快そうに見つめ
「なかなか、可愛いことをおっしゃるお嬢さんだのう」
 老人はかすれた声で笑った。
「誰?おじいさん……この村の人……?」
 おそるおそる訪ねる恭子を無視して
「面白いのぉ。うん。実に面白いのぉ。最近はこの辺の子供らでもそんな可愛いこと口にする子ぉはおらんけんのぉ」
 勝手に自分で頷き勝手にしゃべりはじめた老人をいぶかし気に見つめながら、どこの人だっただろうと記憶のページを急ぎ探す。ここにいるのだからこの村の人間なのだろうけれど、見たことがないようなあるような、何よりも老人の顔は皆同じに見えてしまう。
 元から住んでいるわけではないので知らない顔くらいあっても当然なのだが、戸数僅か四十世帯程度の小さな村なので当然殆どの住人は恭子のことを知っている。
 毎年夏に遊びに来ているせいもあるのだが、特に今年は両親の離婚話の件があるので注目の的なのだ。
「可愛らしい話を聞かせてくれた礼に、ワシからも面白い話を聞かせてあげよう……」
 老人は草むらの奥のうっそうとした林を指差した。
「あすこにな、茸が生えとるんじゃ。こんまいけんよう気が付かんかしれんけど、よう探してみるとな、茶色いこんまい茸なんじゃ」
 村の人では無下にできない。変質者という感じでもない。恭子は愛想笑いを浮かべながら適当に相槌をうつ。
「道からちょっと入ったとこかのぅ。運が悪いと見つからん。運がいいとすぐに見つかる」
 今一つ話しの中身が要領を得ないが、とりあえず「はぁ」と頷く。
 随分長い間茸の生えている場所の特徴や探し方を聞かされたような気がする。獣道を見つけたらその道と林の境目だとか狸の糞らしいものを見つけたらその周辺だとか。
――その茸が何だっていうんだろう……
 次第に上の空になってきて老人の話は右から左へと頭の中に残ることなく通り過ぎていく。
「……でな、願いは三つじゃけんの」
「……え?」
「ふぉっふぉっふぉっ」
 急に老人が大きな笑い声を上げた。
「やっと興味が湧いてきたかね」
 悪戯っぽく目を細めてからかうように言う。
 恭子は今までまるで聞いていなかったのが「願いは三つ」という言葉に反応したのがばれて照れたようにつられて笑う。
「まぁええわ。けんど、こっから先は一回しか言わんけん、よう聞いときよ」
 笑っていた皺くちゃの顔が急に硬い表情になった。
「その茸を一本、食べながら願い事を心の中で唱えればその願いは必ず叶う。しかし願いを唱えて良いのは三つまで。茸も食べて良いのは三本までじゃ。もちろん願いと願いの間にどんだけ時期が開いても人一人の生涯で三つまでじゃけんの。それを超えると……」
「超えると?」
 唾を飲み込んで聞き返すと老人の表情がまた緩くなり
「さぁのぅ。なんせ今だ願いを三つ以上唱えた人間はおらんけんのぉ」
 ふぉっふぉっふぉっと高笑いする。
「いないの?何で?」
「さぁのぉ。それが自然ちぅもんなんじゃろうのぅ」
 ゆっくりと老人の声が遠く小さくなっていく。同時に視界もぼやけてゆき、辺りが急に色を失い真っ白になる。……気が遠くなる……

「…………ちゃーん……恭子ちゃーん」
 遠くから自分を呼ぶ声に目を覚ます。辺りはもう夕暮れ。いつの間にか本当に眠ってしまっていたらしい。
 周囲を見渡す。あの老人の姿は既にない。
「なんだったんだろう……」
 ぼんやりしていると祖母が曲がり始めた背中を重たそうに後ろ手で抱えながら歩み寄ってきた。
「恭子ちゃん、やっぱりここにおったんか」
「おばぁちゃん」
「晩御飯できたけん、早う戻っといで。おじいさんも待っとるけん」
「あ……うん……あのね、ばぁちゃん……」
「うん?どないかしたんね?」
「……ううん……すぐ戻るけん先に行っといてや」
 先ほどの老人のことを訪ねようとして止めた。この村の人間ならいずれ顔を会わせることもあるだろう。それよりも気になるのはさっきの話。
「そうか?暗うなる前にもんておいでなぁ」
 両親のことがあって祖父母はとにかく恭子に対して気を使う。独りになりたい時もあるだろうと食事時であれ無理に一緒にいることを強要しない。
 去年の夏は「食事は皆で食べるもの」って遅くまで遊んでいた私を引っ張って連れて帰っていたのに……今年は随分違うなぁ、立ち上がって服についた草を払いながら呟いた。
「そうだ、茸……」
 祖母の後ろ姿が見えなくなるのを見て林に入って行く。まだ完全に暗くなるまでは時間がある。
 もしかしたらからかわれたのかもしれない。冗談好きな年寄りの暇つぶしの相手にされただけなのかもしれない。
 理性が「そんな夢物語みたいなこと現実にあるわけがない」そう言い聞かせようとする。しかし感情が体を動かす。 そんなことあるわけない、わかってる。だけど……何でわたしこんなことやってるんだろう……あるわけないじゃない、あるわけ……獣道、この細っこい道らしいのがそうなのかな?いやだ、やめてよ。わたしもしかしてあんな話信じてる?そんなことあるわけないじゃない……
 二十分ほどうろうろした頃、夕日は赤みを帯びてきて緑の林を朱に染めてゆく。
「もう帰らなきゃ」
 そう思いながら腰に手をあて大きく伸びをしたその時、目の角に茶色い小さい植物が飛び込んできた。
「これ!?」
 思わず地べたに這いつくばって顔を近づけて見る。顎に土の冷たい感触。
 確かに老人が言った通りの場所に聞いた通りの姿かたちの茸が三本にょっきりと生えていた。
「まさかね……」
 そろそろと手を伸ばし指先で摘まんで一本抜いてみる。鼻先に当てて匂ってみるが特に何の匂いもしない。
――願いは三つ――
 老人のしわがれた声が頭の中で遠く近く繰り返しこだまする。
「あるわけない……そんなこと、あるわけない……」
 無表情に何度も呟きながら指は残りの二本も摘み取る。

 家に帰り着くと日はとうに暮れ星が出ていた。
「遅かったねぇ、あんまり心配かけんといてや」
 祖母が急須に茶を入れながら声をかける。二人は先に夕食を終えたらしく飯台の上には恭子一人分の食事が待っていた。魚と煮物と漬物。いつも通りのあたりまえの食卓。
 祖父は年頃の娘の扱いに困っている内心を隠そうと居間で背中を向けテレビを見ながら
「早う飯をすませてしまえ。飯台が片付かんで困る」
 平静なそぶりをしながら言うが、あぐらをかいている足が小刻みに貧乏揺すりを繰り返す。
「うん、遅ぅなってごめんなさい。ちょっと山で落し物しちゃって探しよったんよ」
「落し物?見つかったんか?大事なもんか?」
 麦茶を入れたコップを差し出しながら心配そうに祖母が訪ねる。
「うん、たいした物でもないんだけど友達のお土産やったから」
 赤い鈴のついたキーホルダーをスカートのポケットから取り出して見せる。とっさについた嘘。
「そうか。友達から貰ぅたもんやったら大切にせんといけんもんなぁ」
 にっこり笑ってご飯をよそう祖母を見て少し胸が痛む。
 嘘をついたせいなのか、キーホルダーと一緒にポケットに収まっているハンカチに包まれた茸のせいなのか、箸が進まない。しかしここでまた悪戯に心配をかけて無用な詮索をされたくはない。目の前の夕食をとにかく口に放り込む。
 食欲があるのは元気な証拠、と信じているのか、二人は恭子が鯵の煮付けを骨までしゃぶるように食べてしまうのを満足そうに微笑んで見つめる。恭子もテレビのお笑い番組につられて笑う。
「あ、ばぁちゃん、そのスカート明日も穿くけん洗わんでええよ」
 風呂に入る時脱いだ服を危うく洗濯機に入れられそうになって慌ててひったくる。
「そやけんど恭子ちゃん今日もあんな所で寝っころがっとるもんやけん汚れとるよ?」
「こういう生地はあんまり洗うもんじゃないんよ。はたけば埃も落ちるし」
 よくまぁ口からぽんぽん軽くでまかせが出るもんだと自分でも感心する。
 最近の若い子のおしゃれはよう解らんもんやねぇと目を細くして笑う祖母に心の中で手を合わせながら表面ではへらへらと笑って見せる。
 祖母が脱衣場から出て行くのを待ってポケットからハンカチの包みを取り出した。茶色い茸はきちんとそこに並べられ、まるで出番を待っている舞台役者のように見えた。
 その中の一本を摘まむと残りはまたハンカチで包んでポケットにしまう。
 湯気の立ち上る古いけれど広い木製の風呂場はこの家が大家族だった頃の名残を残し、一人ではもったいないような感じだ。
「そういえばお母さんって七人兄弟の末っ子だったんだよね」
 片方の手に茸を持っているので片手で洗面器を持ちざっと体を流し湯船に浸かる。
「自分以外に姉兄が六人もいるって……どんな感じだろう……」
 一人っ子の恭子には家の中に自分以外の子供がいる感覚が解らない。羨ましくもあるが友達の話を聞けば煩わしくもあり。しかし姉妹か兄弟がいればこんな時不安や寂しさをきっと分け合うことができるのだろう。けれど……
「今さら姉妹なんか……そんなものより今は……」
 指の中の茸をキッと睨んだ。
 脳裏に両親の争いの日々が蘇る。
「お父さんなんかいらない。仕事だか恋人だか解りもしない理由で家にいた覚えなんて殆どないもん。お父さんの収入だけが魅力のくせに浮気のたびにぎゃんぎゃん騒ぐお母さんもいらない。今わたしが欲しいのは……」
 茸を持つ指に力が入りぶるぶると震える。
「今欲しいのはお金!お金があればわたしだってきっと一人で生きていける。あんなお父さんとお母さんに頼らなきゃ生きていけない子供なんかじゃなくなる!」


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2004.3.19