いつか貴女の花になる(後)






 電車を待っている時間がまどろっこしい。一時間の道のりが胸に広がりはじめた不安をさらに煽る。
 確かにこの数週間、真澄はおかしかった。
 頻繁にアパートへ立ち寄ってはいたがこんなに毎日連続して来ることは無く、四〜五日に一度はきちんと家で夜を過ごしていたし、夕食でも確かにあまり食べる性質ではなかったがそれでも翔子が食事をする時には付き合ってにサラダとご飯程度は食べていた。
「翔子ってば私の好きな物作ってくれないんだもん」
 そう言いながら翔子の嫌いなセロリや玉葱を自分で買って来て薄切りにして自分でドレッシングを作り、小さな口に運びながらしゃりしゃりと軽い音を立てていた。
 何か家に帰りたくない理由でもであったのだろうか?
 食事も喉を通らないほど悩んでいることがあったのか?
 相談したくても言いたくても口に出せずにいる何かがずっとあったのか……
 今まで、真澄と部屋で過した時間、学校で一緒にいた時間を考えると他の誰よりもずっと傍にいたと思っていた。しかし考えてみれば翔子の事をあれこれ詮索されなかった代りに、彼女自身の話を聞くこともなかった。今更だが真澄の家族構成すらまともに知らなかったことに呆れてしまう。
 確かに煩わしくなく心地良い関係であったが、お互いの事にまるで関心のないただの通りすがりと何も変わりのない関係。
――一年以上もつるんでたのに、これじゃぁ……
 帰路に焦る翔子の脳裏に茜の薄い微笑みが蘇る。
――これじゃあの人の方がずっと真澄を知ってるみたいじゃない!
 頭の中に浮かぶ茜の微笑みを真っ赤なペンキで塗りたくってやりたい、理解に苦しむ醜い感情。
『あの子、困ったことになってなければいいわね』
 さらに不安を煽る茜の言葉。
――嫌な女!嫌な女!
 電車の椅子の背もたれに背中をどっぷり預けて目を閉じる。脳裏を支配する茜の顔と言動と不安を追い出すように両手の指を膝の上で組んでぎゅっと握る。
「……真澄……」
 小さく小さく呟いた。

 翔子は改札を走り抜けるとそのまま駆け足でアパートに向う。一時間に一本あるかないかのバスを待つより走った方が速い。途中息が切れ立ち止まり大きく深呼吸をしてまた走りだす。長い坂の途中に突然現れる細い脇道。その奥にひっそりと建つアパート。
 鍵を出し穴に鎖しノブを回すのももどかしい。
「真澄、来てるの?」
 おそらく、翔子がこの部屋に住み始めてドアを開けた時に言葉を発するのはこれが始めてに違いない。「ただいま」も「行ってきます」も必要のない一人暮らし。合鍵を渡していない真澄が翔子の居ない間に部屋へ入ることはありえないと解っていながら声を張り上げる。
「真澄?」
 案の定、台所にも部屋にも真澄の姿はない。
 気が抜けたように机に鞄を放り出し椅子にどさっと腰を下ろす。
 溜息をつきながらぐるりと見回す見慣れた部屋。
 違和感。
 夕べ真澄はこの椅子に座って本を読んでいた。
 違和感。
 台所でラーメンを食べている時、曇ガラスに映った華奢なシルエット。
 違和感。
 何かが、おかしい。奇妙さが立ちこめる部屋。
「……ますみ?」
 椅子から立ち上がり本棚に向う。
 夕べ彼女が手にしていた本はどれだろう?並べられた文庫本の背中をなぞる人差し指の先に薄く埃がひっかかる。本棚と本に積もった埃がもう長い間その場所に触れる人間が居なかったことを言葉無く語る。
 指先の埃を払いながら台所へゆっくり向う。安普請の小さな食器棚、並べられたカップと食器。薄いピンクのマグカップを手に取る。真澄が勝手に持って来てこの部屋で愛用していたそのカップの底にもうっすらと埃が敷かれている。
「夕べもこれ、使ってたわよね」
 昨日の夕方真澄の手の中でコーヒーメーカーのポットに僅か残ったコーヒーを受け止めたのは確かにこのカップだったはず。
 しかし思い出そうとすると記憶は曖昧になってゆく。
 夕べの真澄はどんな服を着ていた?何を話していた?何の本を読んでいた?どんな顔を、していた……?
 翔子は冷たい台所の床にぺたりと座り込んでしまった。
「昨日も来てたわよね?真澄」
 だが、部屋の中の家具も本棚も長い間使われていない真澄用の布団の埃も、全てが翔子の記憶を否定する。
 
 表情も虚ろに座ったままの翔子の目の前に白い細い足がふわりと現れた。
「こんな所で何しちゃってるのよ」
 上から大きな瞳が覗き込む。
「真澄!」
「なぁに?大きな声出して」
「良かった……良かったぁ。学校で嫌な事聞いちゃって、ずっとずっと心配だったのよぉ」
 部屋中の全ての物証が彼女の来訪を否定していても、今確かに、彼女はここにいる。翔子は今までの記憶の奇妙な違和感を溢れてくる涙と一緒に流してしまおうとした。手を伸ばし彼女を抱きしめようと体を起こしたその時、からかうようないつもの真澄の軽い笑顔が消えた。
「翔子、嫌な匂いがする」
 目尻が上がり口の端がヘの字に歪み白い顔が蒼く染まって行く。
「真澄?」
「佐々木さんと別れたと思ったら、今度は何?この嫌な匂い。何?」
「匂いって?あぁ、もしかして……」
 指摘されて初めて気がついた。昼間茜に擦り寄られた時に香水が移ったのだろう。
「そんな、変なこと言わないでよ。これは……」
 説明しようとする翔子の口を睨みつける視線で遮る。
「翔子、あなた、私を好きだったんじゃなかったの?」
「好きって……何言って……真澄?」
「私の事好きだって……って、……私……」
 真澄の声が途切れ途切れになってゆく。
「真澄?大丈夫?真澄?」
 真澄のその変貌振りに驚き肩を抱き寄せようと手を伸ばす。が、手は華奢な体をすり抜け宙を舞った。
「…………じゃ足りな…………して……の?」
 細い体が色を失い、頼り無さを増してゆく。背にしていた冷蔵庫が透けて見え始めた。
「真澄?真澄!?」
 叫びながら真澄の体に触れようと手を振り回すが何一つ掴めないまま空を切る。ぼろぼろと大きな涙をこぼしながらやがて少女の姿は儚く消えていった。
「これは……?一体……」
 窓の外で蛙の声が響き渡る。振り向くと白いレースのカーテンの向こうは闇の中。遠い空で青い月がぼんやりと光る。今夜は雲に滲んだ朧月夜。

 確かあの夜もこんな頼りない月夜だった。

 唐突に思い出す数週間前の夜。あの時、最後に見た真澄の顔も先ほどと同じように大きな涙をぼろぼろとこぼしていた。
 佐々木と別れたきっかけは真澄。
 佐々木にとっての理由はやはり真澄がなびいてくれない事で翔子と付き合っている意味が無くなってしまったことかもしれないが、翔子が離れてゆく佐々木を追いもしなかったのは違う意味で真澄が原因だったのかもしれない。
 きれいな真澄。可愛い真澄。女性の目から見ても本当に魅力的な少女。翔子にとって彼女はただその姿を自分のカンバスに映し取るだけで充分幸せにしてくれる存在だった。あの日真澄にスケッチブックの中身を見られるまでは。
 真澄も見るつもりはなかったのだろう。
 しかし開いた窓から入ってきた風の悪戯がそれを開いて見せてしまった。一つのページに幾つも幾つも描かれた真澄の顔、体のパーツ。
「何?これ?」
 ずっと絵に集中していた翔子は真澄の声にカンバスから顔を上げ、彼女が手にしているスケッチブックを見つけてさぁっと血の気が引いた。
「見ないでよ!」
 叫んで取り上げた時はもう遅く殆どのページをぺらぺらとめくって見られた後だった。
「翔子ってば、こんなのずっと描いてたの?」
 そこにある絵のモデルが自分だったと知って急に興味が湧く。描きかけのカンバスを覗きに回る。
「見ないでったら!」
「えーやだ、すごーい可愛く描けてるじゃない」
 翔子の焦りは無視され、きれいに描き映された自分を見て喚声を上げる。
「いつから?ねぇいつから私の事描いてたの?」
 興味深々に大きく開かれた魅力的な瞳でじっと見つめられ逃げ場を失った翔子は観念して答えはじめる。
「初めて真澄を見た時から……」
「それって、もう一年以上も前?ずっと私の事描いてたの?ひどーい内緒で描いてたなんてぇ」
 よほど嬉しかったのか、声が一オクターブ上がる。
「ごめん、黙ってて」
 素直に喜ばれ照れた翔子は顔が赤くなる。こんなふうに喜んでくれるならもっと早く正式にモデルを頼んでも良かったかも、真澄のはしゃぎ声を聞いていると悪い気がしない。
 問題はひとしきり騒いだ後、真澄がふっと言った一言だった。
「こんな絵ばっかり描いてるんだもん、佐々木さんに愛想つかされちゃってもしょうがないわねぇ」
 悪気はなかったのだろう。しかしそこに男の名前を出されて翔子はムッとした。
「佐々木さんとこれは関係ないでしょう」
「えぇ?だってこれじゃぁまるで佐々木さんより私のことをずっと好きみたいじゃない。きっとあの人、なんとなーく察知しちゃったんじゃないかなぁ?」
「察知って、何をよ」
「うんーだから、翔子が佐々木さんなんかホントは好きじゃなくて、ってことかなぁ」
 翔子はずきんと痛むものを胸に感じた。
 それまで意識したことなどなかったが、心のどこかにそういう想いが眠っていたのかもしれない。事実、真澄を初めて知って「描きたい」と思ったのは殆ど一目惚れのようなものだったに違いない。
――佐々木さんより私のことをずっと好きみたいじゃない――
 眠っていた気持ちが起き上がり確かな気持ちになって体の中で形になり始めているのを翔子は感じながら、その成長を止めることができずに持て余しはじめる。
「そうよ、私きっと、真澄のことが好きなんだわ」
 はしゃぎ続ける真澄の瞳を捕らえて、真剣な顔になって告白する。
「私も翔子のこと、好きよ」
 無邪気に笑って答える真澄の態度に、心の中で何かが切れる。
「そういう好きじゃなくて……」
 細い肩を抱き寄せて顔を近づける。柔らかい唇が乱暴に触れる。
 翔子の急な変わり様に慌てて顔を反らす。
「待ってよ、女同士で、ちょっと、待ってよ!」
「何で真澄しか描けなくなっちゃったのか、何で他の絵が描けなくなっちゃったのか、私、真澄しか目に入ってなかったんだ。もう真澄にしか描きたい気持ちが湧かなくなっちゃったんだ」
 一旦離れた唇がもう一度求めて近づいてくる。首を反らしながら嫌がって拒否する真澄の頬を強引に両掌で押えつけ再び唇がふさがれる。
 真澄は小さな手を握り締め翔子の背中を叩きつけるが体格の違いとその非力さでびくりともしない。
「好きだったんだわ、初めてあなたを見た日から、ずっと」
 翔子の唇がうっとりと囁きながら頬に、首筋に這うように動く。
「やめてよ翔子、こんなの変よ、おかしいわ」
 自分の気持ちに気付いてしまい、必死になって欲するモノを欲望のままに奪おうとする翔子の耳に涙声で訴える真澄の声は届かない。
「お願い、やめて、こんなの、気持ち悪……」
 喉の奥から甘酸っぱい嫌な匂いの塊がこみあげてきて、真澄はそれを耐えきれずに嗚咽と共に吐き出してしまった。固形物のないねっとりとした粘液が二人の胸元を濡らす。
「……気持ち悪い?」
 ようやく少しだけ顔を離し胸に垂れる真澄の嘔吐物を指先でぬるりとすくいながら翔子が呟いた。
「そうよ、こんなの嫌よ。こんなの……気持ち悪い……」
 ぼろぼろと溢れてくる涙を拭うこともできずにしゃくりあげる。
「気持ち、悪い……」
 脅える真澄の頬を伝う涙が月の光りを反射してキラキラと光りながら翔子の指先を濡らす。その濡れた指を自分の唇に当てそっと舐めながら体温がさーっと引いていくのを感じた。
 そのまま指を真澄の首に回す。細い華奢な首は両手の指で輪を作るように囲むと軽く指先が余るほど頼りなかった。
「真澄は私が気持ち悪い……?真澄は、私を、気持ち、わ、る、い……」
 翔子の目が焦点を失い眼球が小さな点になってゆく。心の中で消失感と絶望が靄のように広がってゆき全身を支配して理性と常識に目隠しをする。少しずつ力の入ってゆく指先。
 真澄の体は恐怖で固まり、鎖で巻きつけられたように抵抗もできないまま力を失う。
 やがてヒクヒクと動いていた喉も動きを止め、静寂が訪れた。

「思い出してくれた?」
 懐かしい声にびくん、と大きく背中を反らし振り返る。が、そこには開かれた窓から湿った風が入ってきているだけ。その風に乗るようにまたふわふわと声が響く。
「翔子、私を好きだって言ったの、あの日。思い出してくれた?」
 空気の中を漂う異様な気配に蛙も声をひそめてしまった。
「ええ、思い出したわ」
 しばらく無言で立ちすくしていた翔子だったが、窓の傍に近寄り暗い雑木林に向ってぽつりと呟いた。

 握り締めた真澄の首はすっかり冷たくなってしまい、硬く蒼くなってしまったその顔を見つめながらまるで覚めない夢の中にいるようにふらふらと数日を過ごした。
 学校もバイトも無断で休み、アパートの他の住人が仕事に行ってしまい人気のなくなった時間に雑木林の奥へ入り込み二〜三日だかの日数をかけて少しずつ穴を掘る。
 女の細腕でも時間をかければ小さな真澄一人が入る程度の穴は掘れた。
 動かなくなってしまった人間は動いている時よりもずっしりと重く抱えるだけで精一杯だったはずだが、どんな力が翔子に働いたのか、林の中に運び込み穴に寝かせ再び土をかけてゆくのに労した記憶が無い。
 そして全てが葬られてしまったかのように過ぎ去った夜だった。
 すっかり夢の中の続きのような生活に浸りきってしまった翔子はいつものようにカンバスに向かい木炭を手に取った。
「コーヒーでも飲む?」
 翔子愛用の白いマグカップに褐色の液体を揺らしながら白い腕が現れた。
「真澄……いつの間に来てたの?玄関、空いてたっけ?」
 非日常な日常が始まった。

「思い出したわ、すっかり。私……」
「良かった。思い出してくれて、良かった」
 風は静かに姿無き声を運ぶ。
「ごめんなさい……私、あんな事するつもりじゃなかった……」
 自分の気持ちに気付くことが無ければ、真澄にあのスケッチブックを見られ気付かれることが無ければ、きっといつまでもあの居心地の良い二人の日々は続いていたはずだった。
「後悔しても、誤っても、遅いのだけど……」
「……そうね……」
 怒っているのか、許しているのか、まるで解らない声。
「私、どうすれば……」
 両腕で頭を抱え込む翔子に温かい風が触れた。
「ねぇ、こっちに来て」
 誘われるまま窓を乗り越え暗い雑木林を目指す翔子の耳元に、クスクスとからかうようなあの懐かしい声が絡みつく。
「私達、やりなおせるわ。あの二人の静かな毎日を、繰り返し続けられるわ」
 ざくざくと落ち葉を踏みしめ歩く。
「……そうね、続けられるわね……」
 まるで夢遊病のようにふわふわと歩く翔子には張り出した小枝も気にならない。剥き出しの頬に、肌に小さなかすり傷をつけながら一点を目指す。
「私、毎日翔子の傍にいたわ」
「ええ。毎日来てくれたわ」
 遠く暗い空から小さな雫が落ちてきた。朧月は姿を隠し、代りにぽつぽつと雨が降り始める。翔子がその場所に辿り付いた時には髪も服もじんわりと濡れていた。
 だから翔子は気付かなかった。自分の頬を伝っているものが雨なのか、涙なのか。涙だとしたら自分の流しているものなのか、あの日指に触れた真澄の流したものなのか。
「ごめんね、真澄」
 ひざまずきその土を抱きしめるようにうつ伏せに倒れる。
「いいのよ、翔子。だってあなた来てくれたもの」
 耳をくすぐる声が子守唄のように、唱えるように、翔子の瞼を重くしてゆく。
「この下で真澄、土に還るのね。でも一人にはしないから。真澄の土の上できっと、きっと、花を咲かせる。真澄への好きだった気持ちを種にして、いつか……」
 意識が未明の底へ落ちてゆく。

 花を咲かせるわ。大好きな貴女の全てを養分にして、きれいなきれいな花を。
 いつか……


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2004.9.16