Queen of Night





「こんな所にこんな店あったっけ?」
 会社の帰り、地下鉄を降り、混雑する商店街を避けてアパートへ向かう脇道に入る。
 車一台がようやく通れる細い道。アスファルトの上には子供達の落書きの跡。
 その落書きの跡を追うように足早に通り過ぎる道。いつもなら。
「まぁこの店構えじゃ今まで気が付かなかったのも無理ないわね」
 ちょっと見は花と観葉植物が趣味の個人宅。
『煉瓦野花店』
 奇妙な名前の看板と狭い屋内のレジがかろうじて店であることを主張する。
 恭子は『店』と呼ぶにはあまりにもお粗末な薄いガラスの向こうを覗き込んだ。
 開かれたままの戸をくぐり中に入ると床一面にびっしりと置かれた鉢植えが出迎える。通路がまるっきり獣道だ。
「それにしても。。。これじゃ黙って持っていく人もいるだろうに。。。」
 まるで盗ってくれと言わんばかりに開いたままの戸。人が入ってきたにも関わらず店の者は出てくる様子もない。
 鉢植えにはそれぞれ植物の名前と値段が書いてある札が刺さっているのでやっぱりこれらは売り物なのだろう。
「ポトス、アジアンタム、ディラセナ、ハートカズラ、アジアンタム。。。」
 一つ一つ確認するように名前をつぶやきながら見ていく。
 ふらふらと夢遊病のように歩き回っていると、ふっと、一つの鉢が目に止まって動けなくなった。
「これは?何て名前なのかしら。。。」
 他の鉢には皆刺さっている名札が見当たらない。
 艶のある幅広の細長い葉を重たそうに挿し木にもたれさせながらも、これでもかと堂々とした、見る者に息を呑ませるその佇まい。
「値段もない。。。売り物じゃないのかしら?」

「これはね、月下美人と言うのだよ」

 足音もなかった。いや、周囲の雑音を消してしまうほど恭子はその鉢植えに飲み込まれていたのか。
 ふいに背中から聞こえた声に冷や水を浴びせられたように驚いて振り向く。
「あ。。。私。。。黙って入って。。。」
「いいんだよ。花屋なんだからね。入って物を見てもらわにゃ、商売にならん」
 頑固そうな趣の小柄な老婆は歪んだ腰をかばうようにレジの横にあるパイプ椅子に座った。
「その花が気に入ったかい?」
 月下美人と呼ばれた鉢に向かって顎をしゃくる。
「いえ。。。ちょっと覗いて見ただけで。。。それに私、きっとすぐに枯らせてしまうから」
 照れたように笑いながら出口に向かって回れ右をする恭子に、老婆はかまわず続ける。
「なに、そんなに難しかないよ。夜と雨風の日は部屋に入れてやって、後は日当たりのいいとこに置いて、表面が乾いた頃に水を注してやればいい」
「でも、お高いんでしょう?私今日はそんなにお金持ってなくて。。。」

 月下美人

 名前くらいは恭子も聞いたことがある。どんな花かは知らないが。
 その豪華な名前から、きっと高価な花に違いない。
 だが、老婆はそんな恭子の思惑さえ無視する。
「あんたは運がいいよ」
 老婆の声が変わる。さっきまでのしわがれた声は無く、どこか遠い空から、いや、まるで宇宙の彼方から聞こえてくる、声と言うより、響き。
 その響きに操られるように宗教画で見るような光がどこからともなく射してその鉢を包み込む。
「運が。。。?」
「あぁ。そいつは一昨日蕾をつけたばかりでね。もう一ヶ月ばかり面倒見てやれば花が咲くはずさ」
「花が。。。」



 どこをどう歩いたのか覚えていない。
 とにかく気が付くとアパートの見慣れた部屋にいた。あの大きな鉢植えと共に。
 我に返って、まず玄関の靴箱に走る。どうやって鍵をバッグから取り出し玄関を開けたのか覚えていないが、とにかく鍵はいつも通り靴箱の上の竹で編んだ小さな籠に入っている。玄関もきちんと鍵がかかっている。靴もきちんと揃えてそこにある。
 次に冷蔵庫に走る。
 並べられたビールの缶。昨日スーパーで買った惣菜の残り。その隅っこに見慣れたピンクの札入れ。
 慌てて札入れを取り出し中身を確かめる。
「ある。。。」
 一円も無くなってはいない。会社を出る前に買い物の予定を立てるため、数えた時のままの金額。
「じゃぁ。。。あれは。。。?」
 目が部屋の真中、こたつ兼用飯台の上に鎮座する鉢植えに向かう。
「私、お金も払わずに持ってきちゃった?」
 老婆の最後の言葉「花が咲くはずさ」そこから先の記憶がない。

 やばい

 やばい
 
 やばい。。。

 こんな鉢植え欲しさに私?ナニをやったの?

 人生最大の危機に立たされている。
 記憶を無くしてしまうほどの、一体ナニをやったの?

 恭子は苦しくなってくる胸を両手で抱えるように押え、身体をくの字に曲げて鉢植えに向かって倒れこむ。
 そもそもそんなに真剣に欲しいと思って見ていたわけじゃなかった。確かに見とれてはいたけれど。
「あれ?」
 目線が鉢の下になって初めて気がついた。
「何か。。。貼ってある。。。」
 白い小さな、横が人差し指程度で縦が小指の爪ほどの長方形のシール。
「何も書いてない?うーん。。。」
 目を凝らしてじっと見つめると薄い灰色の何かが浮かび上がってくる。しかし文字のような、何かの暗号とも見えるし何かの模様にも見えるそれを上手く形容することができない。
「まぁいいわ」
 明日朝会社へ行く途中あの花屋に寄って事情を確かめればいいのだもの。そう決心すると少し気持ちが軽くなる。
 悪いことをしたのなら謝ろう。弁償をしてこの鉢も返そう。なるべく穏便に済むように何度でも頭を下げよう。
 そう、自分の人生にこんなとんでもない事、あってはいけないのだから。。。



 足が動かない。地面に根でも生えたようで、歩くことができない。
 恭子は路地に入るその曲がり角で立ちすくんでしまった。
――だめだよ、行かなきゃ。。。
 夕べの決心はまだきちんと心の中で生きている。しかし足が動かない。
 大通りを向いている信号が青になり黄色になり赤になり、また青になる。既に何度目の青を迎えたのか、軽快なデジタル音と共に人の波が大きく動き、出勤時間のピークが来ていることを教える。
 恭子はその波に身体を向けると、呪縛が解けたように一歩踏み出す。
「このままじゃ遅刻しちゃうもの。。。」
 言い訳が口をつく。
「何も朝からもめごとを起こす必要もないわ。帰りにもう一度来ればいいのよ」
 少し遠回りになる商店街を抜ける道。人ごみを嫌って過去2回か3回しか通ったことのない通りだが、今朝は仕方がないのよ、そう呟きながら駅に向かった。

 そして夕方。やはり足は動かない。路地に入ろうとするとどうしても体が固まる。
 そちらへ行ってはいけないと、胸の底の深い暗い所から声がする。
「会社に居るよりも疲れるわ。。。」
 どうすることもできずに遠回り。夕方の商店街は朝と違って買い物帰りの主婦で賑わう。
 恭子より若い母親が子供の手をつないですれ違う。
「最近のお母さんって若くてきれいなのね」
 溜息が出る。
 賑わう通りを抜けてアパートに一番近いスーパーに入る。いつもと代わり映えしない惣菜とビール。
「運がいいって言うのは。。。あぁいう若くてきれいなお母さんを言うのよ」
 部屋に帰りいつもの場所に鍵を置き冷蔵庫に札入れを放り込む。買ってきたビールは飯台の上。プルトップを開け小麦色の液体を流し込むと
『あんたは運がいいよ』
 あの得体の知れない響きが背中に氷を滑らせるようにぞくぞくと蘇る。
「運ですって?」
 口の中で繰り返し『運』という言葉を反芻させながら膝を抱えると涙があふれてきた。
「運なんて。。。あの時使い果たしちゃったわ。。。」



 制服で身を包んでいればそれなりに上の方に位置していた容姿も大学に入れば埋もれてしまう。
 有名でもなければとりわけ特別な何かがあるわけでもない平凡な私大。その中の普通の女子大生。それはまるで祭りの日の金魚すくいの中の目立たない一匹。
 それでも「自分はラッキーだ」そう思えたのは2年生の半ば。周りが就職活動で焦り始めた頃、叔父の経営する会社にコネをつけることのできた恭子はじたばたする友人を見下し優越感に浸っていた。
――自分はラッキー
 しかしそれもいざ就職してしまうと時間と共に崩れてゆく。
 仕事と会社に近いアパートを斡旋してくれた叔父の顔をつぶしてはいけない、そのプレッシャーが重くのしかかる。仕事をおろそかにして評判を落とさないために、大学の頃のように遊びまわることも夜更かしをすることもできない。
 簡単な就職。それは見張りつきの刑務所への入り口だった。
 社長の目を気にして気軽に話し掛けたり遊びに誘うことをしない他の社員。
 同期入社の女子社員達は順番に寿退社してゆき気がつくと独り。

 定時出社。定時退社。いつもの道。いつものスーパー。いつもの惣菜。いつものビール。そして独り。
 自分で道を開き人生を変えていく力など、そのいつもの道筋にとっくの昔に落として消えた。
「明日こそ、あのお婆さんに話をしなきゃ」

 しかしやっぱり足は動かない。路地に入ろうとすると固まってしまう。朝も帰りも。何日も同じ葛藤が続く。
 煩くて嫌いだった商店街にそろそろ慣れ始めるのに比例して鉢植えに関する罪悪感も薄れていく。
 そしてそれらと反比例して膨らんでゆく白い蕾。
「いいわね。。。あんたは。。。」
 少し乾いた土の表面にコップで水をやりながら恭子は語りかける。
「ずっと眠っているようにただ待ってるだけできれいな花になれるのよね。。。」
 蕾は何も答えない。
「私なんだか本当に大事な事を忘れてしまってるみたい」
 鉢植えの面倒を見ながら、毎日少しずつビールの量が増えて行く。
「あの日、私あの店で。。。」
 乾いた砂漠が水を欲して吸収するように、乾いた体がビールを欲して吸収する。
「あの店で。。。」



 深夜、ぽん、と鼓を打つ音で目が覚めた。恐らくそれはとても人の耳に聞こえる類の音ではなかったのだろう。けれど確かに恭子はその音を聞いた。
 一枚一枚が柔らかく背伸びをするように開いていく。それはまるで天女の舞。
 天に帰りそびれた天女の羽衣もこんな風に揺れたのだろう。
 窓から差し込む月の光が幻想の風景をさらに高みへと誘う。

――ふぅ。。。

 どこか高い遠い場所から溜息が届いた。
 聞いたことのある、不思議な響き。

――ありがとう。。。私を咲かせてくれて。。。

「誰!?ど、どこから!?」
 恭子の白い指が震える。

――長い長い、眠りだったわ。。。やっと自由よ。。。

「どこなの!?誰かいるの??」
 月光の筋を辿ってたどり着いた白い大輪の花。



 恐怖の君臨。



――次は、貴女よ。。。。。

 月下美人が微笑んだ。
 鉢植えの白いシールの目には見えない奇妙な紋様が入れ替わる。




 ョ
  ウ
   コ




 呑みかけの缶ビール。放り出したままの惣菜。主を失った部屋に、一夜の命と自由を散らせて鉢植えが一つ。
 その鉢植えの中、新たに閉じ込められた命が自由咲かせる日を夢見て眠りについた。
「さあ、今度はあんたを咲かせてくれる人を探さなぁねぇ。。。」
 どこからともなく老婆は現れ、鉢植えを抱え、朝靄の中に消えて行った。



――月下美人(英名 Queen of Night)――
ハシラサボテン科エピフィラム属。非耐寒性多肉植物
原産地 中南米 孔雀サボテンの仲間
開花は6月〜10月で不定期



Top
Novel Top
2003.11.6