庭歌 かあさんよぶのもうたでよぶ 有紀と息子の太一がその知らせを受けたのは、三日月も凍る冷たい一月の深夜だった。 大学受験を目前に控えて勉強の為に起きていた太一が受話器を取り、小声でぼそぼそと敬語の会話を交わしている所へ有紀が「こんな夜更けに何事」と半纏に袖を通しながら部屋から出てきた。 無言で胸元に押し付けられた受話器から懐かしい、けれど二人がその人を知っていた頃より確実に老いた声が流れてきた。 「有紀さんか? 久しぶりじゃのぉ。沢渡の重三じゃが解るかのぉ」 「お義父さん? まぁお久しぶりです。お元気でしたか?」 驚きを隠しもしない裏返る声で挨拶をする。 「こんな夜中にすまんのぉ。けど、どうしても連絡せんわけにはいかん事になってしもぉて」 真夜中のアパート。電話を切ると二人は慌しく、けれど隣近所をはばかりながら静かに、とりあえず数日程度の着替えをバックに詰め込み玄関を出る。 「静かに、静かにね」何度も念を押しながら有紀が車のエンジンをかけ、応えるように太一が努めて静かにドアを閉め、ゆるゆると駐車場を出る。 二人の暮らす街から重三の住む田舎の漁村まで、約二時間半の旅。 アパートや家屋の密集する路地を出て広い国道に出るとアクセルを踏む足に力を込め有紀はスピードを上げた。 「お義母さん……」 呪文を唱えるように何度も呟きながらハンドルを握る母親に「慌てんと急いでくれよ」と太一が眉間に皺を寄せながら助手席で囁いた。 国道を外れ海に沿って延々と続く曲がりくねった薄暗い道を行きやがて小さな湾を囲むように古い家屋の寄り添い並ぶ集落が見えてきた。その中でも一番端にある、一際古さの目立つ屋敷の庭に車を入れ隅に置かれた白い軽トラックの隣に並べ停めると、灯りの点けられたままの玄関がカラカラと乾いた音を立てて開き恰幅のある白髪の老人が現れた。 「無理を言うて、すまんかったのぉ有紀さん、太一」 「無理な事なんか何も。それよりお義母さんはどうなんです?」 「昼間医者が診てくれたんやがな、どうにも良くないらしい。まぁ年も年だからな」 とにかく中へ、と促され二人は九年ぶりの懐かしい玄関をくぐった。 ぎしぎしと軋む暗い廊下を歩き居間に入る。コタツの上に徳利と呑みかけのまま捨て置かれたらしい猪口が置いてあるが肴は無い。 「まぁ茶でも淹れるから、その間にアレの顔でも見てやってくれや。今は大分落ち着いて寝とるから、顔だけな」 かつて母子が住んでいた頃と全然変わらない間取り。家具の位置も花瓶の場所も。有紀は迷うことなく居間の向こうにある部屋の襖を開けた。有紀の肩越しに太一も暗い和室を覗き込む。電気は点いていないが縁側から射し込む月の灯りで部屋の中はほの明るい。 その中央に敷かれた布団におっとりと眠る顔を月が照らし皺の筋に合わせて深い影を作る。 「お義母さん……」 しばらく合わない間に随分と老けた。電話を貰ってから覚悟はしていたものの、知っていた頃とのあまりの変わりように有紀は胸の奥からこみ上げてくる熱い塊を口に当てた掌で受け止める。 太一はその後ろで言葉も無く明るい居間へ目を背けた。 やがて盆に急須と湯飲みを乗せた重三が台所から戻ってきて 「まぁ、寒かったやろ。温まらんかね」 コタツの縁をぽんぽんと叩いた。 「他のモンは三が日までおったんやがの、皆が帰ったすぐ後から急に具合が悪くなってきてなぁ……」 すっかり冷め切っているであろう徳利の中身を猪口に注ぎながら重三がぽつぽつと話し始めた。 「風邪やろうと休ませておったんやが一昨日からどうにも様子がおかしくて医者に来てもらったりもしたんやが、どうにも、なぁ」 「入院して検査とかはしないんですか?」 有紀が湯飲みに口を当てながら聞くが重三は大きく首を振り 「あれが聞かんのだよ」 ふぅ、とやるせない溜め息をついた。 「一昨年あたりから弱ってはきておったから病院と家との往復はしておったんだが、ここに来て偉い頑固になりおっての」 くい、と酒を飲み干しコタツの上にタンと猪口の底を軽く叩きつけ 「何かしら察しておるんかも、しれん」小さくぽつりと呟いた。 「そんな……」 そんなことはない、そんな縁起でもない、有紀は何かしら慰めの言葉を言おうとして飲み込んでしまった。 義母のあの痩せ様と老け様を見れば、この数年の間に夫婦でその程度の励ましや慰め合いは既に幾度となく繰り返されたに違いない。それを乗り越えてきてのこの夜なのだ。ずっと疎遠であり続けてこの家族に関わる事をしなかった有紀が今更何かを言える立場ではなかった。 代わりに、違う危惧を口にする。 「他の……健一さんや和美さんは……」 自分達が呼ばれるからにはよっぽどの状態なのだろうに老夫婦の長男長女の家族が居ない様子も何だか出すぎた真似をしているようで落ち着かない。重三はそんな有紀の心持ちを察したのか 「あいつらは正月三が日までここにおったからな。先週帰ったばかりでそう簡単にはまたここまでは来れんそうな」 一応連絡はしているらしい事を聞いて有紀はホッと胸を撫で下ろした。が、重三は憎々しげに口を続ける。 「和美なんぞはもう通夜まで呼んでくれるなと言いおった」 有紀の茶を飲む手が止まる。 夫の姉兄である和美も健一も長く会っては居ないがその人となりは良く知っている。決してそんなに義理の無い人たちでは無かった。おそらく義母の体調がおもわしくなくなってきてから何か事ある度に呼び出され続けたのだろう。 正月の三が日までここに居て帰ったばかりだというのならまた急な呼び出しを受けてもそう答えてしまって無理のない話しかもしれない。 「まぁお義父さん、健一さんも和美さんも近くに住んでるわけじゃないですし、仕事も始まったばかりでしょうから色々と難しいんではないです?」 「けんど、なぁ……」 重三は納得がいかないという風に目を閉じた。 長男長女の言い分も解るけれどこの義父の気持ちも痛いほど解る。有紀は黙って立ち上がり勝手知ったるとばかりに台所へ入り棚の徳利に酒を入れ慣れた手つきで鍋に水を張りコンロに乗せ火を点けた。 シュンシュンと湯気が立ち上る。 燗のつかる頃合を見て徳利を居間に持ってゆくと重三が飲んでいた猪口の正面にもう一客の猪口が置かれている。 「あんたもこんな時間にすまんかった。まぁ急ぐほどの様態でもなかったようだから、よかったら一杯やらんかね」 重三が慌てて電話を鳴らしてから母子が車を走らせていた二時間半の間にも義母の容態は変化して随分落ち着いたらしい。 有紀は黙って頷き二客の猪口に酒を注いだ。太一は所在無しにコタツで寝転がり持って来た参考書を捲り始めていた。 酒を口に運びながら溜め息をつくように重三がまた話始める。 「でものぉ、今夜はのぉいつもとは違ったんじゃよ」 「と、いいますと?」 「急に何を思い出したかしらん、昼間からずっと寝ておったんが急に起きたと思ったら『太一を呼んでくれ』言いおっての」 急に自分の名前を出されて太一は「は?」と参考書から目を放し重三を振り返った。 「それこそ、あんた達に迷惑をかけるわけにはいかんからギリギリまで連絡するつもりは無かったんだが……」 申し訳無さそうに重三が目を伏せたのを合図にでもしたかのように遠い庭で鳥の声が響き始めた。 「鳥が鳴きよる……」 驚いたように庭の方へ目を凝らす太一に重三もはっと目を開いた。 「こんな夜更けに珍しいことじゃの」 庭の隅にある倉で飼っている連中だろう、と重三は説明した。そして 「太一が飼っとった鳥もあの中でまだ生きとるぞ」軽く笑うように言った。 「俺の?」 「あぁ、お前は忘れとるやろうけどな……」 その時だった。昔話が始まりそうな気配を察したのか、鳥達の鳴き声に眠りを邪魔されたのか、襖の向こうから弱々しく唸る声が流れてきて三人は慌てて襖を開けた。 母子の見守る中、重三がゆっくりと布団に近づき耳元でぼそぼそと話しかけ、くるりと太一を振り向き見た。 「太一、お前に話があると言うとる」 「俺? 俺に?」 促され部屋に入ると入れ替わりに重三は居間へ出てゆき、パタンと襖は閉められた。 月明かりの下、鳥達の囀りだけが響き渡る夜。薄暗い部屋の中で枯れ枝のような手が震えながら布団から出てくる。太一はそれを逃さずしっかりと両手で包み込んだ。 「婆ちゃん?」 「太一……か?」 大きゅうなって、と、口元まで耳を近づけてようやく聞こえるか細い声。 「あぁ、婆ちゃん、久しぶりやな」 老婆のゆっくりとした喋り方に釣られて太一もゆっくりと途切れ途切れな話し方になる。そして骨ばった小さな手がぎゅっと太一の手を握り返した。 「婆ちゃんなぁ、太一に謝らな、いかんことが、ある……」 突然の告白だった。 太一と有紀がこの家で暮らしたのは九年前の僅か半年足らずだった。そのたった半年の間一緒に生活したというだけの老婆に、何を謝る事があるというのだろう。 「太一の文鳥……な、婆ちゃん……死な……もう……や……」 「文鳥?」 鳥といえば先ほど重三が何か言いかけていたが正直太一にその記憶は無かった。けれどあれと関係のある話なのだろうか。太一は注意深く老婆の話に耳を澄ます。 「太一が欲しがるもんで、買ぉてやったあの文鳥……」 太一が学校に行っている間に死なせてしまったのだと、老婆は言った。何が悪かったのかも解らなかった、と。 おそらくはこれから死に行くばかりであろう身で、太一本人も覚えてもいない鳥の話など何のためにしようというのか。太一は返事のしようもなくただ黙って聞いているしかできなかった。 父親が妻と子を捨て居なくなってしまった後、老夫婦の元に身を寄せたものの学校にも馴染めず友達もできず寂しくいた太一を不憫に思って買ってやった文鳥がその次の日、学校に行っている昼間に死んだのだという。 慌てた老婆は太一が帰ってくる前にと急いでよく似た新しい文鳥を買ってきて籠に入れ、死んだ鳥をその庭に埋めたのだと、そしてそれは永遠に自分の胸にしまいこんで誰にも黙っているつもりだったのだと。 「けどなぁ、今になって死んだあの鳥も、不憫でなぁ……誰にも、太一にも知られずに庭に埋まっとる、不憫で、なぁ」 目にうっすらと涙を浮かべ「許しとくれ」と手を握り締める。その手の頼りない温もりを感じながら太一もぼんやりと思い出していた。 確かに、文鳥を飼った記憶がある。 いつの間にか居なくなってしまっていた父親。その為に有紀が女手ひとつで子供を育てなくてはならなかったのは自分達の息子の愚考のせいと胸を痛めた老夫婦が、せめて有紀の仕事が落ち着くまで面倒を見させてくれと申し出たことから四人の暮らしが始まった。 だが、急な環境の変化に馴染めず学校にも漁村の中にも居場所を持てないまま、独り俯き続ける毎日になってしまった。それは今でも太一の心に残る一番辛くて寂しかった記憶。 収入の安定しない有紀の為に、せめて子供に服の一つもと近所の親戚などからお古をもらってきては着せていたのも原因の一つだったのかもしれない。 突然村に住み着いた母子をネタに噂する大人たちの話をそのまま聞きかじった子供達が『誰それの服を着ている』などからはじまって色々なからかう対象にする。 貧乏とも、父親に逃げられたとも、理由はとにかく何でもよく、ただ退屈な田舎でちょうど新しいゲームを手にしたような感覚で。 そんな中で文鳥を買ってもらった。 「あぁそういえば……でもあの鳥はまだ生きてるって爺ちゃんが……」 しかし老婆の耳に太一の声は届かず、果たして死んでしまった鳥に言っているのか太一に言っているのか既に解らない十何度目かの「許しておくれ」を最後にようやく握り締めていた手を解き緩やかな寝息に身を沈めた。 背後で、話終わった気配を察したのか静かに襖が開けられ細い灯りの筋が部屋の奥まで延びたのを見て、ようやく太一は振り返り立ち上がった。 「終わったんか?」 重三のひそひそ声に 「あぁ、婆ちゃん寝てしもうた」太一もひそひそと答える。 居間に戻ると新しく淹れなおされたお茶が温かい湯気を立ち上らせ、ずっしりと疲れてしまった体をほぐしてくれた。時計を見るとほんの十分ほどの間だったのにまるで一時間以上も話し込んでいたように感じる。、老い先の見えた年寄りの話を聞くというのはこんなに疲れるものなのか……そう思いながらしみじみと茶を啜っている所に重三が神妙な顔で太一の顔を覗きこんだ。 「なぁ、婆ちゃんの話、何だったんか良かったら聞かせてくれんか?」 秘密にするまでもない、太一は薄暗い部屋の中での告白をありのままに話して聞かせる。 黙ってしまい、しばらく考え込んでいた重三だったが、思い出したように口を開いた。 「そういえばあの頃かのぉ、婆ちゃんが『墓の中まで持っていく内緒ができてしもうた』とかぽっつり言ったことがあったな」 およそ内緒事など縁遠く朗らかな人であった妻が珍しく俯き加減に庭の隅を眺めながらひどく泣きそうな顔でそう言ったもので、その内緒が何なのか聞くことも出来ずにずるずると日々が過ぎすっかりと忘れ去ってしまっていた。 「あの頃は太一が村に馴染めない事で色々思うところもあったようだしなぁ……」 「確かに、あの頃はご心配ばかりかけて……」 有紀がしんみりと話に加わる。 実際、あまりにも太一が村に馴染めずにいた事とそれを心配する老夫婦を気に病んで、有紀は半年足らずで自立の資金を貯め遠方の友人を頼ってこの家を出てしまったのだ。老夫婦も母子の新しい門出に若干ではあったが援助を惜しまなかった。 「でもなぁ……そう悪い事ばっかりでも無かったけどなぁ」 お茶で一息ついた太一がぼんやりと口を開いた。 老婆から聞かされた文鳥の告白をきっかけに、この村での暮らしを始まりから終わりまでなぞるように思い出す。 「確かに文鳥を飼ってから少しは明るくもなったようやったが……」 重三の挟む口に顔を横に振り 「俺が文鳥を欲しがったのな、理由あってな」 「理由?」重三と有紀が目を丸くした。 小学生の子供がいくら何でも家に閉じこもってばかり居らるわけでなく、近所で楽しくないのならと老夫婦の目を盗んでは二十分、三十分かけて歩き隣のまた隣の村の湾まで足しげく通っていた。秋も半ばの海に人気は無くとても静かで、砂利の浜で寄せては返す波を相手に遊んでいた。浜には打ち上げられるゴミに混ざって波に削られた宝石のようなガラス玉や石が散らばり飽きることは無かった。 その浜で、見つけた。 水色のワンピースの裾を揺らしながらゆっくりと歩いてくる彼女を。洒落た結い方の髪に白いフリルのワンピース。手には小ぶりの竹篭を下げて。 何を思ったのか、彼女は太一を見つけると小走りに駆け寄ってきて軽く様子を伺うように小首をかしげ、思い切ったように話しかけてきた。 「あなた、この辺の子?」 一目で『地元の子供じゃない』と解る風体、アクセントの違う言葉使い。日頃『地元の子』にからかわれ続けている太一の心が一気に緩んだ。 「この間までM市に居たけど」 「本当? 私もM市に住んでるのよ。良かったぁ、話し相手が居なくて寂しかったのよ」 嬉しそうに声を上げて彼女は早口でまくしたててきた。耳に馴染みのあるアクセントに太一の頬が緩む。『どの辺に住んでいた』だの『学校はどこだった』など話が弾む。 「そっか、太一君はもうこっちに引っ越してきちゃってるのね。私はお婆ちゃんの法事の間だけここに居るのよ」 ひとしきり話が盛り上がり互いの自己紹介まで終わった頃、太一は彼女の持っている竹篭に興味を持った。 「これ? 文鳥なの」 「文鳥?」 「うん、ちょっと長くお家を離れるから連れて来ちゃったの」 文鳥は毎日餌と水を替えてやらないと死んじゃうから……籠を抱きしめ中の文鳥に頬ずりするように頬を寄せた。 「可愛いね」と太一が言えば「うん、すっごく可愛いのよ」彼女は目を輝かせ頬を染めまるで自分のことを言われたかのように喜んだ。 「そうだ、太一君も文鳥飼うといいよ、すごくきれいな声で鳴くの。仕草も可愛いし、つがいで上手に飼えば卵も産むのよ」 彼女が本当に素晴らしいことのように文鳥のお見合いを話すので太一も胸がときめいた。 そして、太一が祖母に『文鳥が欲しい』と言い出したのはその夜、晩御飯の席でのことだった。 赤い嘴の頭が黒くて羽が灰色の文鳥がいいと、特徴まで指定して『おねだり』をされて祖母が断われるはずもなかった。 翌日学校から帰ると約束された文鳥はきちんと家に居た。その可愛さをしばらくじっと愛でて指先で嘴をつついてみたりして充分に観察した後、太一は家を飛び出した。 走って、転ぶように走って着いた浜に、今日は彼女が先に来ていた。太一の姿を見つけた彼女は大きく手を振りながら「太一くーん」と呼びかけ、太一は照れて顔を赤くしながら浜への砂利道を滑り降りる。 「あのね、僕文鳥買ってもらったよ」 「本当? どんな子? 可愛い?」 太一が自分の文鳥の特徴を言うと「うちの子と一緒ね」と彼女が喜ぶ。そして太一の文鳥が雄だと知ると「うちの子は女の子なの、お見合いができるわね」と更に喜んだ。 「うちの子と太一君の文鳥がお見合いして好き合えば卵を産んで子供達が増えるね」 「そうなの?」 「そうよ、この子も私のお友達の家の文鳥が別なお友達の所から貰われてきた子とお見合いして生んだ卵から産まれたの」 じゃぁ、明日早速二羽を会わせてみようよ、と彼女が言った。太一は勿論嫌だなどと言わない。明日また文鳥を連れてこの時間にここで会おうよ、と約束をした。 「明日も明後日も、私がM市に帰るまで毎日会って文鳥のお見合いをしましょう、冬休みにまた来るからその時もきっと会えるから」 海に落ちる夕焼けの中で彼女が言い、二人は約束をした。 「太一も結構ロマンスがあったのねぇ」 有紀が感心するように溜め息をつくと 「それで? どうなったんだ?」 その後の話に興味津々で重三が聞く。 急に、太一の横顔がコタツの布団に落ち、沈んだ色になった。 「……来なかったんだ……」 「来なかったの?」 何で? と交互に聞く二人にただ首を振り「知らないけど……」最後の方はかき消えるような声だった。 彼女が、予定より早くM市に帰ってしまったのか、それともささやかな逢瀬を見かけた彼女の親が『得たいの知れない子』と親しくしているのを嫌がって会いに行かせなかったのか、とにかく理由は解らないが太一はその後二度と彼女と会うことは無かった。 次の日もその次の日も約束した冬休みも。 それでも「お見合いをさせて卵を産ませようね」という彼女の楽しげな声はずっと耳に残り、いつかまたきっと会えると文鳥の世話を続けた。引越しが決まるその夜まで。 母子二人の生活でしばらくは鳥など構う余裕は無いと文鳥は老夫婦に預けられ、太一は心残りのまま半年住んだ漁村を後にした。 が、働く母親と二人の生活は想像以上に慌しく、その心残りを忘れ去ってしまうのにそう時間もかからなかった。 「そんな事がねぇ……」ほどよく入った酒のせいもあってか有紀は涙腺が弱くなっているのか目尻にうっすらと涙を溜めている。 「それにしても、婆ちゃんあの文鳥うまいこと増やしてくれたんだな。あの後つがいでも買ったんか?」 一羽だけ、というにはあまりにも騒がしすぎる囀りに太一が尋ねる。重三はそれに笑いながら首を横に振った。 「ありゃぁ全部婆ちゃんが拾って来たんだ」 「拾って?」 「あぁ、お前らがこの家を出てからなぁ……」 道端で怪我をしたスズメや野鳥が居れば持ち帰り助けてやり餌などやり、余所で産まれて引き取り手の無いインコなどあれば引き取り、気がつけば小さな倉はすっかり鳥小屋となってしまっていた。 「しまいにゃついたアダナが『鳥婆』だ」 酒の入った猪口を口に運びながら重三が愉快そうに笑った。 「一番最初の文鳥を死なせた後ろめたさでしょうかねぇ」 「どうかな、わしはお前らが居なくなって寂しかったんだと思っておったが」 いずれにせよ真相は眠る『鳥婆』の心の中。目覚めるまで知ることはできない。 「またきっと元気になって、色々話してくれますよ、ねぇ?」 誰にともなく有紀が呟いた。 「そうだなぁしっかり目覚めてぜひ教えてもらわんことには、なぁ」 母子が家を出てからは努めて彼らのことを口にしないようにしていた老婆がこの夜『太一に』と言い出したもので、急に容態が思わしくなくなった事もあり『今度こそ……』と思ってしまっていたのが、思わぬ昔話で気が抜けたらしく重三の心の中で重苦しく居座っていた『覚悟』が溶けて消え始める。 きっと明日か明後日になれば老婆はまた少しだけ元気になり、梅の入った粥など食べながら「まぁ、そんなこともありましたわねぇ」と笑ってくれるに違いない、そう思えてきた。 未明の空に鳥達の声が吸い込まれるように昇ってゆく。 再び襖の奥で布団を軽く跳ねる気配がして重三達は飛び寄り近づき、静かに細くそれを開けた。 薄闇の中で開かれた襖の形のまま、細く伸びた居間の電気に照らされた皺だらけの顔が微笑みながらこちらを見ていた。 重三は自分の不安がやはり無駄な心配だったのだと安心しながら声をかけた。 「どうした? 喉でも渇いたか?」 布団の中で小さな頭がふるふると横に流れる。 「あぁそれとも煩すぎたか? すまなかったな、随分久しぶりに会ったもんでつい話が弾んでしまってな」 それにも、老婆はゆっくりと頭を横に振った。 「どうした? ん?」 重三がそろそろと部屋の中に入り布団の横に座ると、折れそうな小枝のような両掌が布団の間から現れ老婆の顔の前で拝むように合わさり、掠れた声が震えるように出てくる。 「ありがとうねぇ、重三さん」 随分長い間耳にすることのなかった呼び方に重三はどきりとしながら、釣られて自分も 「どうした、小夜子さんや?」 昔懐かしい呼び方に戻る。 「太一に合わせてくれて、ありがとうねぇ」 そして襖の方に目をやり 「有紀さんも、ありがとうねぇこんな夜分に、ありがとうねぇ」 最後にもう一度重三の顔を眺め 「ありがとうねぇ、重三さんありがとうねぇ」 とてもしっかりとした口調で言うと手を胸の上に下ろし再び安らかな寝息をたてはじめた。 重三は布団を賭けなおし手をその下にしまいこみ 「びっくりしちまうじゃないか、そんな新婚だったころの呼び方で呼びやがってよぉ」 照れているのか嬉しいのか、有紀達から見える背中だけでは表情がよく解らないけれどくすぐったそうな声で呟き「おやすみ」とその頬を撫でた。 そして居間に戻り太一に向かい「ありがとうな」と頭を下げた。 本当だったら懺悔も許されないまま墓の中まで持っていくはずだった荷物。それが太一達が来てくれたことによって告白を許され荷物を肩から下ろすことができたに違いない。 「残りあとどれだけ生きるかしれんが、その残り分、今まで気に病んでおった事が無くなって随分楽に最後までおれるやろう。ありがとうな、太一、有紀さん」 正直、重三には何故小夜子がそこまでたった一羽の文鳥を気に病んでいたのか理解はできない。漁業を営んでいたのだから他の生き物の生き死にによって自分達が生かされていることなど重々承知であったはずだろうに。 けれど小夜子にはそれがとても重い荷物だったのだろう。太一の心を慰める為に買った文鳥だったから特別だったのだろうか、それもまた小夜子が目覚めてから聞かなければ解らないこと。 自分達はこのまま老いて消え去って行くのみなのかと心のどこかでぽっかりと穴の開いた思いで居たのが言葉にし難い期待で溢れてくる。 「まだまだアレと話すこともありそうだな」 徳利の最後に残った酒を手酌で猪口に注ぎそれをあおる。 「そうですよ、お義母さんもまた元気になるでしょうから、そうしたらまた改めて遊びにきますので私たちにも話し聞かせてくださいね」 思いの他しっかりとしていた小夜子の口調に、夜中の国道を走っている間抱えていた不安が消えて有紀も気持ちが楽になった。 窓の外では冷たい三日月から笑うような風が響く。その中で鳥達は歌うことを止めない。 コタツの中でトロトロと三人が眠気に誘われ始める頃、遠い空でかぎろいが白く揺れはじめる。 倉の鳥達の囀りが一旦止み、数秒置いて再び突き刺すように激しくなった。まるで何かを知ったかのように。 眠りに落ちかける一瞬手前、何気なく太一が見た庭先で月明かりの中どこを見るともなく謳う小夜子の背中が浮かんだ。 かあさんよぶのもうたでよぶ − Top− −Novel Top− 2005.1.26 2007.12.5(改) |