からんころん







 《からん》と《ころん》は、向かい合ってみればまるで鏡に映っているかのような、同じ模様、同じ毛並みの痩せこけた二匹の三毛ネコです。けれどよく見れば、からんは少しだけ目尻が釣りあがっていて、ころんは少しだけ目尻が下がっています。もっとも、二匹はずっと長いこと背中合わせで過ごしてきたので、自分たちがそんなに似ているとはまったく知らないことなのだけど。
 二匹は、海と空の真ん中に浮かぶ小さな島に住んでいます。気持ちの良い芝生の広がる島の中心には、一本の椰子の木が立ちほどよい木陰を作り、それを挟むようにして座る二匹の足元には、僅かな空間を挟んだ下に海が広がっているのが見える、それは小さな小さな島です。
 そんな小さな島でたった二匹で暮らしているというのに、お互いに一度も顔を見合わせたことが無いのです。
 からんは、お酒を呑むのが大好きで、たばこの匂いが大嫌い。
 ころんは、たばこを吸うのが大好きで、お酒の匂いが大嫌い。
 向かい合ってうっかり口を開けばお互いの匂いが、吐き出す息に乗って漂ってくるのだから背中合わせになってしまうのはしょうがない。
 そして毎日、二匹は背中合わせでお互いの足元に広がる海に釣り糸を投げて、食事になるエビを釣っていました。
 からんはエビの尻尾が好きで、ころんはエビの頭が好きで、そして潮は具合の良いことに、いつもからんの方からやってきて、ころんの方に流れてゆくのです。だから、エビもからんに釣られて尻尾を齧られてから海に戻され、島の真下の海をぐりると巡ってころんの方に流れてくるのです。そのエビをころんが釣って頭を齧り、お腹だけになってまた海に戻されて、ぐるぐると潮にのって彷徨いながら、最後に卵を産んで死んでゆくのです。
 だから二匹は食べるものに困ったことがまったく無いのでした。

 その日もいつもと変わりなく、二匹は背中合わせで真下の海に釣り糸を投げてエビを釣り、互いに好きな所だけを齧って海に投げ、からんは椰子の実の酒を呑み、ころんはたばこを一服ふかす。そしてまた釣り糸を投げる。その繰り返しで過ごしていました。
 けれどその途中で、ころんが小さな声を聞いたような気がして、海に向かって投げ下ろした自分の足の間から島の底を覗いてしまいました。
「おい、からん」
 振り向くことは絶対にしないで、背中に向かって声をかけます。
「何だ? ころん」
 こちらも振り返ることは絶対にしないでからんが同じように足の下に広がる海を覗き見ました。
「女の子が居るぞ」
 真下に揺れる穏やかで真っ青な海に、島の影がぽっかりと作った黒い影が窓になり、違う景色を映しています。そこにはおかっぱ頭の小さな女の子が一人、ぼんやりと立ち竦んでいました。
「ありぁあ川だな」
 からんは女の子の姿を素通りして、その後ろでゆったりと流れる大きな水の景色を言った。けろどころんはそんな事は気にも留めないで、焦点の定まらない眼で川べりを眺めている女の子がとても気になってしかたありません。
「ありゃあ迷子だな」
 気になるあまり、肩がうずうずし始めているころんの気配を背中で感じて、からんは聞こえるように、わざとらしい大きな溜息をひとつ吐いた。
「ほっとけよ。あぁいう人間に関わるといつもロクなことが無いんだ」
「わかってるさ。でもさっきからちっとも動かないんだ。もうずっとああして立っている。あれじゃあそのうち腹が減るな」
 気にし始めるともう止まらない。ころんは『よいしょ』と細長い痩せた尻尾を海に向けてピンと伸ばしました。すると尻尾はにょろにょろと伸びて真下の海に先っぽをちょんと浸いて、ぐるぐると白い泡の渦を巻き始め、女の子の居る場所へ通じる窓を開きました。そして持っていた釣り竿を椰子の木に引っ掛けると、後ろ足で軽く芝生を蹴り、軽く弾んで渦の窓に飛び込んだ。
 からんは背中からころんの気配が消えたのを感じて、「……やれやれ……」大きく溜息を吐きながら椰子の実の酒をぐびりとあおりました。

「オマエ、迷子か? 迷子なんだろ?」
 女の子の足元に痩せた体を摺り寄せながらころんは喉を鳴らして聞きます。するとそれまで何も見えていないように動かなかった瞳が小さなネコを見つめ、ピンと立つ尻尾を指先でおそるおそる掴みました。
「……やっぱりなぁ」
 三毛の小さな頭が上を仰ぎ髭を振るわせる。今ではからんが『ほら、言わんこっちゃない。またロクなことじゃない』とエビを釣りあげ尻尾をかじり、斜め後ろの海に投げ捨てている。聞こえてか聞こえてないのか、ころんも小さく溜息を吐きました。
「ふつーの人間にはオレの姿は見えないんだ。でもオマエにはオレが見えるんだな」
 首が縦に揺れてきれいに切り揃えられた髪の裾がふわりと踊りながらころんの問いに答えた。
「まぁいいさ。それよりオマエ、かーちゃんはどうしたんだ?」
 女の子は首を捻って少しだけ考えるような仕草をしたが、やがて掴んでいた尻尾を離し、真っ直ぐに腕を伸ばして川沿いに続く砂利の辺を指差した。つられるようにころんがその方向を見れば、女性が一人、長い髪を振り乱しながら歩いていた。女の子の伸ばした指先と女性の指先に、一本の細い糸が川面に反射する陽の光を浴びながらきらきらと輝き繋がっています。
 その糸を辿るようにころんが女性に近づいてゆくと、女の子もゆっくりと後からついてきます。距離は少しずつ縮まってゆきますが、間に張られた糸は少しも緩むことがなく、まるで巻き取られているようにずっとピンと張ったままでした。そして、すぐ横まで近づくと、ころんは女性の白いワンピースの裾を爪先に絡めながら聞きました。
「これ、かーちゃんか?」
 女の子は口元を緩ませ、ほっこりと笑みながら頷きます。けれど女性はそんな一匹と女の子にまるで気付くことなく、相変わらず川に向かって怒鳴るような声で短い名前を繰り返し叫んでいます。
「……しょーがねぇなぁ」
 ころんは川の水に尻尾の先を浸けて、くるくるとかき混ぜて自分だけに見える小さな窓を作ると、川底に眠っていた明るい夏の日の記憶を呼び込み映し出しました。

 子供達の甲高い嬌声と川向こうの林から響くひぐらしの声。ゆったりと流れる川の泣かせに立つ低い岩から、飛び降りて泳いでまた岩に登り、飛び降り遊ぶ子供達。
「うん、いいねぇ。子供はこうでなくっちゃな」
 にこやかに見守る一方でころんは
「でも、あれはいけないな」
 遠い山の頂を厳しく見つめます。
 周囲をうかがえば、誰も気付いていない様子で、大人達は肉や野菜を金属の棒に刺したり、石で組んだ竈に火を起こしたりで忙しそうです。水で遊ぶ子供達を見ている大人も、遠い景色にまで気を配る気配がまるでありません。
 やがて川の水が少しずつ濁りながら嵩を増やし始めました。
 危ないと、ようやく大人が気付いた頃には、流れはほんの数分前とは全然違う勢いで速くなり、何人かの子供が呑み込まれた後でした。
 ころんはその《何人か》の中から女の子の姿を探して見つけました。
「何だ、助かったんじゃないのか?」
 他の子供達と同じように流されてはいたけれど、水嵩が増えたと同時に飛び込んだ母親にしっかりと抱きかかえられ岸辺に向かっているところでした。
 けれど二人は岸に辿り着く前に力が尽きてしまったのか、抱きかかえていた腕が伸びて互いの手首を握り締めるだけとなってしまいました。
 先に、指を開いたのは女の子の方でした。
 母親は一人、岸に辿り着いてしまいました。
 水に消えた女の子が見つかったのは、たっぷりと一昼夜が過ぎ、川の流れが収まりいつもの穏やかさを取り戻した翌日の、ずいぶん下った村落の川辺でした。

「なるほどなぁ」
 あの日から母親は毎日、遠い町から車で一時間以上かけてこの川に訪れて、見つかったはずの女の子を捜し続け、女の子はそれをずっと眺めながら動けずにいたのでしょうか。
 川に開いた窓はもう何も映しません。
「それで、オマエはどうしたいんだ?」
 母親に話しかけようにも、彼女にはころんが見えないし声も聞こえないので、女の子に向かって訊ねました。けれど女の子は何も答えず、歩き回る母親の姿をただじっと見つめているだけ。母親が動く度に繋がっている糸がきらきらと光っています。
「……しょーがねぇなぁ」
 ころんは深い溜息を吐くと、夜の帳が下りて母親が諦めるまで女の子と一緒に彼女を眺め、家路に着く母親の後を追って二人揃って車に乗り込みます。淀んで暗い空気の車内で、ころんの気持ちも重くなってしまいました。
 海と空の間の島から何かしら悪態を吐く声が聞こえて、「だってしょーがねぇだろう」と揺れる車のシートに体を埋めてぼやきながら。

 団地の階段を上がり、重い鉄の扉が開かれ、ころんが母親の背中越しに中を覗くとじめっとした空気が流れてきます。
 無造作に脱ぎ捨てられた靴を飛び越えて、重い足を引きずるように部屋へ向かう母親の後を二人が追って入れば、眼の中へ真っ先に飛び込んできたのは真新しい白木作りの壇でした。その真ん中に立て掛けられた、四つの漢字が彫られた白木の板をころんは覗き込みましたが、そこはとても空虚で儚く、僅かな気配も感じられません。
 振り返ると一緒についてきた女の子は出会った時とまったく同じぼんやりとした顔で母親の傍に立ちすくんでいました。
 母親はソファに倒れるように転がると壇をちらりとすら振り返り見もせずにそのまま目を閉じてしまいました。
 どれだけ長い間このカーテンは閉じられたままなのでしょうか、暗くてじめじめと空気の淀む部屋の隅でころんも途方に暮れ始めました。
 がちゃん、玄関の方で金属の開く音がしてころんが飛び跳ねるようにして首を回すと、男の人が部屋の入り口で一旦立ち止まり、大きく息を吐き入ってきます。男の人は部屋の真ん中にあるテーブルにビニールの袋をトンと置き、壇の前に丁寧に座って小さな蝋燭に火を灯し両手を合わせてまた、息を吐きました。
 ……これ、とーちゃんか?
 聞くまでも無く解りきったことを今更口に出す気にもなれず、両親の間にぽつんと立つ女の子を見守ります。
 父親がテーブルの袋からスーパーの惣菜を取り出しビニールを剥がし、おにぎりと一緒に並べ母親に声をかけますが、彼女はぴくりとも動かないで眼をうっすらと開いてまたすぐに閉じてしまいました。
 そのうち話しかけるのを諦めた父親がテレビを付けてもそもそと惣菜を口に運び始め、ペットボトルのお茶で流し込むと彼もその場にごろんと寝転がってしまいました。
 それから朝が来て、彼はまた仕事へ出て行き、彼女はまたあの川へと向かいます。
 そしてまた夜が来て、また朝が来ます。繰り返し、繰り返し。
 ころんと女の子も揃って母親の後をついてゆきます。繰り返し。
 その何日かの間に、どれだけ聞いたでしょう彼と彼女の怒鳴り声と鳴き声と叫び声と、訪れる沈黙が流す空気の音と。繰り返し。
 女の子はその真ん中で、いつもただ立っているだけ。
 川に行っても、母親の後をしんみりとついて歩くだけ。
 何日かの後に、ようやくころんが声をかけました。
「なぁ、オマエ、それじゃダメだと思うぞ。離れたくない気持ちはわかるけど、ダメだと思うぞ」
 女の子は少しだけころんを振り返って、またすぐに母親の足元に朧な瞳を落とします。
「なぁ、オマエ、いい加減腹も減ってきただろう。そういうの、良くないんだよ」
 ころんの話しかける言葉に、時折『ん?』という表情で振り返りはするものの、相変わらず何かを答えるでもなし。
「そういうの、良くないんだよ。オマエみたいな子供が腹空かしてしまうのって、良くないんだよ」
 ころんの尻尾がじれて堪りかねたように女の子の細すぎる足首に絡みました。尻尾に邪魔をされて歩けなくなってしまった女の子は立ち止まってころんの話を聞くほかありません。そうしている間にもどんどんと母親が叫びながら歩き遠ざかってゆきます。
「大丈夫だ、生きてる大人にはいっぱい時間があるんだから、どこにでも行けるしどこにでも帰ってこれるんだ。だけどオマエみたいな子供には時間も無いし、腹を空かせちまうと本当に動けなくなって、良くないんだよ」
 一生懸命自分の話を聞かせようとするころんを、恨めし気な小さな眼が見下ろします。
 ころんは小さくぶるっと毛を逆立てながら
「そ……そんな眼ぇしたってダメだぞ。怖かねぇぞ、オレは」
 首を激しく左右に振って逆立った毛並みを鎮めます。
 ここでこの母娘と出会ってからもう何日経ったのか、うっかり数えるのを忘れてしまったころんですが、遠くの島で釣りをするフリをしながら見ているはずのからんが、まだ何も言わないで居るのを考えるとまだ余裕は有りそうだ、と、そしてまだ余裕の有るうちに、と、ころんは少しだけ急がなければならないなと気持ちを引き締めました。
 そのせいか口調も少しだけ厳しくなってしまいます。
「な、オマエ、本当は腹が減ったんだろう。オレがちゃんと満腹になれる場所に連れて行ってやるから、かーちゃんから離れてついてこい」
 けれど女の子も負けません。唇を引き締めてころんを睨み返します。
 これは一筋縄ではいかないな、と思いながら、でもいつだって自分の《仕事》はこんなもんさ、と『にゃぁ』と大きく一鳴きして諦めに似た溜息を飲み込みました。
「オレがそのかーちゃん何とかしてやる。大丈夫だよ、オレ、慣れてんだ」
 女の子は頭も足も動かしません。
「ウソじゃ無ぇ」
 それまで、どちらかと言えば目尻を下げてふにゃらふにゃらと付いて来ていたころんが急に口調を強くしたので、女の子はうっかりと睨んでいた眼を緩めてしまいました。
 今だな、ところんは立て続けに言葉を吐き出します。
「それより、オマエがそうやって腹ぁ空かせたままでいるとかーちゃんももっと大変なことになるんだぞ。今よりもっと大変だ」
 女の子がようやく首を少しだけ捻りました。
 母親の後をついてゆくことばかりに熱心だった気持ちの隅っこに隙が出来たのをころんは見逃しません。川と川辺の境目に尻尾の先を落としてくるくると回し、小さな窓を開けます。女の子は眼の先だけでそっと覗いたつもりでしたが、あっという間も無く、髪の先からとろけるように窓の向こうへと引きずり込まれてしまいました。
 ぽつん、と二人が降り立ったのは、鬱蒼と茂る林の小道。道は涼しげな小川に沿って続きます。
 遠い空から降ってくるキラキラの木漏れ日を浴びながら、高く葉を茂らせる木々の合間を縫うように歩いてゆくと、明るい陽射しが降り注ぐ開けた広場に躍り出ました。その広場の奥まった所に、白い小さな家がぽつんと佇んでいます。
「心配すんな、オマエのかーちゃんもそのうちここにやってくるよ。約束するよ」
 ころんが白く塗られた木造りの玄関に立つと扉がゆっくりと開き、木漏れ日よりももっと明るい白い廊下がその奥にある部屋へと誘っています。
 部屋から溢れてくる笑い声に背中を押されて、女の子は廊下に足を一歩踏み入れました。
「大丈夫だ。ここまで来ればオマエも腹いっぱいになるぞ」
 にやりと、ころんは唇を緩め微笑み、女の子がすっかり部屋の中に溶け込んでゆくのを見届けてから踵を返し、元来た道を一匹で戻り始めました。
 開かれたままの窓を抜けてあの川辺に戻れば、空は既に薄暗くなり始め、遠くで白い月がお日様に代わり輝き始めています。母親が今日も諦めて家路に着く時刻です。ころんは一匹で彼女の後を追い、車に乗り、相変わらずのあの部屋に戻ってきました。
 帰ってきた父親との変わらないやりとりの後、やっぱりその日も壇をちらと見ることもせず眠ってしまった母親の胸元に、あの家の傍を流れていた小川の水で湿らせた尻尾をかざし、くるくると輪を描き始めます。
 胸元に作った小さな小さな窓の向こうでは、昼間と変わらず川辺を探して歩き回る母親が居ました。
「やっぱり、ずっと探してんだな」
 ころんは、探して歩く母親の先に、林へと続く道を開きます。
「夢の中だから出来るんだ。昼間じゃオレは生きてる人間には触ることも話しかけることも出来ないもんな」

 確かに、あの川辺を歩いていたはずなのに、突然景色が変わったのに気付いて立ち止まる母親の前に一匹の痩せた三毛ネコが躍り出ました。
 ちょこちょこと歩くネコの、揺れる尻尾に誘われるように後を追います。と、いうよりも、林の中は一本道なので他にどこへも行きようが無いだけなのですが。
 やがて白い小さな家に辿り着きました。
 ――もしかしたら――
 色んな、期待と、願望とが交じり合った気持ちを抱えて扉の取っ手に手をかけます。
 開くと、そこは長い明るい廊下がずっと先へと伸びています。
 男の子が一人、突然の来訪者に照れたような笑顔で近寄ってきました。
 訊ねたいことはたくさんあって、けれど何から言えば良いのか解らずに母親が戸惑っていると、男の子はくるりと背を向けて廊下の向こうへと姿を消してしまいました。
 ――どうしよう――
 立ちすくむ母親の脇を縫ってころんが廊下に上がりこみちょこちょこと歩いてゆきます。その揺れる尻尾を見つめていると、戸惑いがすっと消えて、足が自然と動き始めました。
 部屋は、とても広く、明るく、暑くも無ければ寒くもありません。その中でたくさんの子供達が遊んでいます。
 一方では先ほどの男の子が数人の子供達に混ざって低いタンスによじ登り、床に飛び降り、またよじ登る、その繰り返しを楽しんでいます。
 違う方では柔らかな床の上を転がるようにでんぐり返しをしながら笑い声を上げる子供達。
 そして全ての子供達が、裸でした。たった一枚、白いパンツを履いているだけで遊んでいました。
 そしてどの子供達も、豊かに大らかに笑っています。
 ぐるりと周囲を見回していると違う片隅で白い小さなテーブルを囲んで、小さな食器を手におままごとに興じている一群れを見つけました。何の気なしにその集団に母親が近づくと、すっくと一人の女の子が立ち上がり、両手を広げ、こぼれるような笑顔で駆け寄ってきます。見覚えのある、おかっぱを揺らしながら。

 ――ここに居たの――
 ――ここに居るんだよ――

 ――見つけた――
 やっと、見つけた――

 目が覚めて彼女は隣で眠っていた夫の胸倉を掴むように揺らして起こしました。
「ねぇ、あの子、生きてるわ。やっぱり生きていたのよ。ほら、あの家に……」
 伝えようとして指し示した先で、黒く艶光する小さな箱が目に入りました。つい先ほどまで自分が居たはずの白い家とはまるで違います。
 白木だったはずの板は漆黒の板に代わり、彫られた四つの漢字は金色で塗られています。
 突然に起こされて訳の解らないことを口走られて、けれど父親は怒るでもなく、呆気にとられながら
「昨日、四十九日の法要までしただろう…」
 重く呟いた瞬間、締め切られたままの窓から吹くはずの無い風が舞って、部屋を暗くし続けていたカーテンを揺らしました。
 ほのかに射し込んだ朝の光りに乗って、小さな足がほんわかほんわかと、真っ直ぐに、黒い箱に向かって歩いてゆき、黒い箱の中で開かれた窓へと迷い無く溶けるように吸い込まれてゆきました。けれど両親に見えたのは、一瞬射した光りが新しいその場所に降り注ぎ、またカーテンに遮られる様子だけでしたが。
 それでも、母親が現実に戻るには、充分だったのでしょうか。
 ころんはその様子をずっと眺め、『ん』と軽く頷いて遠い空を仰ぎました。
「さぁて、オレはこれから、どうしたもんかな」
 女の子はもう、あの場所に居ます。お腹を空かせたような焦点の定まらない眼でぼんやりと立ちすくむことも無いでしょう。
 母親も、もう川原を探し歩きまわることは無いでしょう。
 けれど周囲をぐるりと見回せば、ころんが開いたままの窓が幾つも開かれたまま、渦を巻きながら残っています。
「オマエがしゃしゃり出る幕はもう無ぇぞ」
 一番最初にころんがくぐった遠い窓から懐かしい声が降ってきました。
「でもよぉ」
「何だ?」
「オレはどうすればいいんだ?」
 ころんが開きっぱなしの窓達を見つめ、途方にくれます。
「しょーがねぇなぁ……」
 からんは釣りの手を休め、尻尾をピンと立てて伸ばし空に向かってぐるぐると掻き回し始めました。
 すると、あちこちの開きっぱなしの窓達が、静かに渦を収めながら閉じてゆきます。
 最後の窓が閉まる直前でころんは後ろ足で陽射しが作る線を蹴り弾みをつけて、最後の窓に飛び込み収まりかけた渦をくぐりました。

 二匹が釣り糸を垂れるその下に、広い海が今日も穏やかに揺れています。海の上には島が作る影が揺れて、ころんが望むままに窓となり、あの夫婦の姿を映します。
 現実に戻った彼女を待っていたのは、失ってしまった現実への後悔と自責と痛みばかり。吐き出す言葉が変わっただけで、怒鳴り合い詰り合う毎日に変わりはありません。
「オレ、アイツに約束しちまったのに、なぁ……」
 ころんが淋し気にぽつりと漏らせば、
「ハナっから解っていたことだろう」
 と冷たい返事が背中に返ってきます。
「オレに出来ることなんて、ホントに何にもありゃしないんだな」
 オレに出来ることといったら、ほんのちょっと、腹ぁ空かせた子供のために窓を開けてやることだけだ……開くだけで閉めることも出来無ぇのにな……
 たくさんの時間を費やして、ようやくころんが顔を上げてぼやきを
「でも、アイツ、ちゃんと満腹になって良かったな。良かったんだよな」
 ふっと普通の囁きに変えました。
「子供が腹を空かせたままで居るのは良くないもんな」
 何度も繰り返し呟きながら、ころんは少しだけ満足に笑います。その様子を背中で感じながら、からんが眉間に皺を寄せて訊ねます。
「なぁ……いっつも言ってると思うんだけど、腹が空くって、ちょっと違うんじゃないか?」
 聞かれて、ころんも一瞬考えたけれど、あの家で豊かに笑う女の子の顔を思い出して
「いんや、あの顔は確かに腹が膨れて満腹になった、て顔だ。だからいいんだ、これでいいんだ」
 うんうん、と頷きます。
「オレは腹が減る辛さだけは、解るんだからな」
 ちょっと得意気にフンと鼻を鳴らして。
 窓の向こう側ではまだ変わる様子の無い両親が映っていてころんの気持ちはまだまだ晴れませんが、
「生きてりゃいっぱい時間は在るし、何でもやれるし何にでもなれるもんだ。後悔だって苦しいのだって、時間が無きゃできないもんだ。アイツはもう……」
 本当だったらもっといっぱいあったはずの、捥ぎ取られた時間。二度と満たされることの無いはずの満足。
「まったく、沈んだり浮かんだり、忙しいやつだな」
「だってよぉ」
「いいじゃねぇか。今回もオマエはちゃんと腹の減りかけた子供を満腹になれる家に連れていってやれたんだから」
 自分で言いながらも、この『腹が減った』というのはちょっと違うと思いながら、けれどこれでころんが納得するのだからしかた無いと随分な妥協をしてからんもその言葉を使います。

 しばらく時間が経って、からんはある事に気がつきました。
 ずっと釣り糸を投げては引いて、垂らしては上げてを繰り返しているのに、エビが一匹も釣れません。不思議に思って、ころんの吐き出すタバコの煙を吸わないように気をつけながらそっと背後を振り返ると、ころんが背中越しにからんの方向の海へ釣り糸を投げて、一匹まるまるのエビを釣り上げてはむしゃむしゃと頭を齧り、またからんの方向に放り投げています。
 からんの足元の海に流れてくるのは、頭の無いエビばかり。
 頭の無いエビは釣り針にくっついている餌に食いつくことができません。
 餌に食いつかないエビは釣り上げることができません。
 しかし、からんは怒るでもなく、
「しょーがねぇ……」と呟きました。
 タバコを吹かしてどんよりと釣り糸を垂れるころんの背中で、お酒の匂いのする息を溜息と一緒に吐き出しながら、
 からんは釣り糸を引き上げ、しばらくはエビを釣るのを諦めることにしました。椰子の木に釣竿を立て掛けて、
 ――だから人間なんかと関わるとロクなことが無ぇんだ――
 そうひとりごちながら、椰子の実の酒をぐびりとあおります。
「オレにはもっと何も出来ねぇ。開いた窓を閉めるだけしか」
 何も出来無いと不貞腐れるオマエの為に。



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2008.11.26